''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

吉右衛門、油を売るのも使命です より。

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先日、頂き物にごま油を頂きました。
四日市、九鬼・太白胡麻油です。
炒め物にも、揚げ物にもいいですね。

 

味噌汁に数滴、ごま油を垂らせば、味にコクがでます。
何に使おうかと思案しています。
このごま油、香りもいいですからね。
加熱しない圧搾法での油です。

 

油を売るというと、サボりの代名詞です。
サボるというのもフランス語でしたっけ、サボタージュという言葉から、サボるという日本語化した言葉になっています。
今では、まるで本当の日本語のように使われています。

 

油を売ると言うのは、油が切れるまで、時間を要するからです。
たらっと油切れする時間を、たらたらとしているサボっている様に置き換えた言葉です。
落語でも、この油屋が主人公となる話があります。

 

ご存知、『はてなの茶碗』ですね。
3文の安茶碗が、帝の手にとられ、「はてな」と万葉仮名で書かれると1000両の値が付きます。
しかし、油屋の勘違いから始まる話です。

 

この時期ですからね。
油を売るというと、赤穂浪士忠臣蔵に話をこじつけます。

 

最近、赤穂浪士と言えば、47人と認識されています。
しかし、最近までは、46人か、47人かで論争もありました。
泉岳寺に行ったのは、46人です。
一人足りません。

 

足軽寺坂吉右衛門ですね。
最近、この方を主人公にしたドラマや映画が流行です。
不思議な存在です。
徳富蘇峰は、46人として、寺坂を逃亡者と見ていますね。

 

赤穂浪士にあって、唯一の足軽での参加です。
足軽とは、戦に当っては、長い槍を手に、最前列で戦う軽い身分です。
士分でもありません。
ですから、簡単に言うと準武士ということになります。

 

寺坂の禄は、3両2分2人扶持です。
サンピン野郎と、時代劇で聞く言葉です。
3両1人扶持です。
最下位の侍という扱いで蔑視た言い方です。
それに近いですね。

 

永久に出世はありません。
基本、一代限りのお役目です。
身分軽いので、どんな人物であったのか、事件以前の資料がないようです。
何故、このような軽い身分の者も討ち入りに参加したのか、やはり疑問ですね。
忠義という言葉では言い表せません。

 

大石家の家来も参加していません。
浅野家からいうと、陪臣ということになりますからね。
大石も参加を認めません。

 

なのに足軽の寺坂を参加させたのか、やはり疑問です。
それだけの義理もないはずです。

 

幹部も泉岳寺では、身分軽い者として、1名足りないことにも触れていません。
また、大目付も了承しています。
幕府に弓引くテロですからね。
身分の重い軽いは関係ないはずです。
ここも不思議です。

 

討ち入り当時38歳、表門と裏門の連絡係りであったようです。
一番、状況を把握していた人物とも言えます。
怪我もありません。

 

延享4年(1747)、83歳でこの世をさります。
討ち入り後、45年近くも生きたことになります。
寺坂吉右衛門筆記』や『寺坂信行私記』などが現在残っています。
孫の信成が編集したということになっています。

 

唯一の生き証人です。
討ち入り後、浅野本家の大学のもとに行ったということになっています。
もちろん、妻阿久利の浅野三次家にも行ったと思われます。
罪科がかかるので、その辺はよく分りません。

 

罪人ですから、大学の所にも、何年もかかって、行ったことでしょう。
それだけ時間をかけたことになります。
まさしく油を売ったような時間のかけ方です。

 

しかし、これが嘘だという言い分もあります。
浅野本家が、身分低い足軽の者を、謹慎中の大学に逢わせるはずがないです。
そういいます。
確かです。

 

それは大石の采配で、何らかの連絡が付くように手配していたとなれば、これもありえます。
直接、生き証人から、話を聞かせてもらった方がいいはずです。
大石の添え状も手にしていたはずです。

 

その時は、既に討ち入りから数年経って、赤穂義士の名は、世間に届いたいるはずです。
そこまで、計算したかどうかは別にして、ありえます。

 

その後、大目付に自首したということを書いている書物もあります。
しかし、数年経ってから、この赤穂事件を蒸し返すことは、ご法度です。
その為、放逐されます。

 

その後、姫路の吉田忠左衛門の娘婿・伊藤十郎太夫の家に厄介になります。
国替えにも同行しています。
そうこうすること、12年一緒に住まいしています。

 

その後、泉岳寺近くの曹渓寺の寺男となります。
その寺の縁で、断りもできず、旗本・山内主膳に仕えます。
体を病んで、もとの曹渓寺の寺男になり、ここで生涯を閉じます。

 

歩いて20分ほどで、泉岳寺です。
度々、行ったと思われます。
どんな思いで、46人と話をされたことでしょうかね。

 

それらを考えると、やはり逃亡説は薄いと思われます。
大石采配の最後の使命を全うしたと思う方が自然です。

 

不思議なご縁です。
仏の世界で、他の方の菩提を弔いたかったと思いますね。
これも仏の仏縁です。
ありがたいと感じます。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、油を売った「はてな」の話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。