''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

寺坂吉右衛門信行(てらさか きちえもん のぶゆき)

 

寺坂吉右衛門信行(てらさか きちえもん のぶゆき)
(寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日(1747年11月8日)) 
足軽、3両2分2人扶持。討ち入り時は38歳。享年83。

 

寛文5年(1665年)、赤穂藩浅野家家臣で方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれ 

寛文12年(1672年)、8歳の時に吉田忠左衛門の家で世話になる。 

元禄4年(1691年)、忠左衛門加東郡郡代となり、穂積に勤任する。この際に赤穂藩の直臣の足軽なる赤穂藩内では吉田忠左衛門の組下足軽で3両2分2人扶持を支給された。 

またこの年に浅野家小役人下村長次郎の娘と結婚する 

 

元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹し、赤穂藩は改易となったが、この際に寺坂は吉田忠左衛門共に加東郡におり、すぐさま共に赤穂城戻る赤穂城明け渡しを前に家老・大石良雄が同志と血判の義盟を交わしたが、この義盟に足軽の身分の寺坂は加わっていない。その後、上司の吉田忠左衛門播州三木移るとこれに従う。 

 

元禄15年(1702年)内蔵助の書面に接し、吉田忠左衛門と共に播州三木を出立して、播州亀山本願寺領に移るその後吉田忠左衛門は山科会議に参加する。寺坂は吉田忠左衛門に付き従い江戸へ下向する。 

足軽の身分ながら同志との会合にも出席しているある 

 

吉良家討ち入りの後、泉岳寺門前で一行とは別れて江戸市中に潜伏して、四家預けを確認してから江戸を出立して、播州亀山の吉田家に到着する。

 

一説には、内蔵助の密命を受けて、広島に居る浅野大学に報告に行ったとされるとあるが、寺坂の孫の記した『寺坂信行私記』には、寺坂が芸州広島に行ったと記載があるものの、娘婿の伊藤十郎太夫浩行が、寺坂から聞き書きした史料には広島に行ったとは記載がないようだ。時系列、経済的に見ても、広島に行って播州亀山の吉田家に戻ったとは思えない。 

 

翌元禄16年2月4日(1703年3月20日、吉田親子切腹

この時、寺坂夫婦も忠左衛門の形見分けを受けている。 

 

宝永元年(1704年)、吉田家亀山の住まいを片付けて、吉田家は姫路の伊藤家(忠左衛門娘婿)に移り住む。この時、寺坂夫婦も従う。 

 

宝永7年(1710年)、主家・本多家三州刈谷に転封、伊藤家と共に寺坂夫婦従う。 

正徳2年(1712年)、主家・本多家下総古河に転封、伊藤家と共に寺坂夫婦従う。 

享保2年(1717年)、寺坂江戸曹渓寺の寺男として身を寄せる。 

年月日不詳、旗本・山内主膳豊清に仕える。(後々、主膳も曹渓寺に葬られている) 

後に、健康状の理由から、寺坂江戸曹渓寺の寺男として再度身を寄せる。 

延享2年(1745年)、寺坂吉右衛門妻没、曹渓寺に葬られる。 

延享4年(1747年)、寺坂吉右衛門没、曹渓寺に葬られる。享年83歳。 

時系列など、不明確な事も多く、今後の研究を求める。 

(ウィキペディアWikipedia)』NHK歴史への招待5」昭和55年刊 参照)