''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

せめて温かいお茶でも。

今日も、寒い京都です。
天気も日差しもありましたが、寒いですね。
風が冷たいというのでしょうか?

 

暖冬とは言いながら、やはり冬は寒いものです。
寒い時、温かい物は、大変なご馳走です。
冷え切った体に、口が切れると表現することもあります。

 

客に対する気持ちで、粗茶と言います。
それでも、寒い時にはどんなお茶でも温かければ、ご馳走です。
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深夜の労働をなして、帰宅して、それに対して「ご苦労様」の温かい言葉も、ありがたいですね。

 

しかし、逆もあります。
寒空を仕事をなして、その身内とも思っている家から、温かいお茶も温かい労い言葉をなく、一人の人として扱われなかったと思うと、他人ごとながら、いたたまれません。

 

今月のサブタイトルは「赤穂浪士」です。
これだけ寒いと、「サブーい タイトル」です。

 

旧赤穂浅野家の家臣として、討ち入りを成功して、内匠頭の墓参を済ませた後、大石内蔵助の密命を受けた者がいます。

 

寺坂吉右衛門信行(てらさか・きちえもんのぶゆき)(38才)です。
身分は、足軽です。
禄は、3両2人扶持です。

 

もっとも軽い身分と言えます。
足軽というと、戦国時代は一番最初に槍のふすまを作って槍を合わせます。
もっとも軽い身分です。

 

江戸時代も中期には、戦がありませんから、槍を持って戦に行くことはありません。
しかし、大名家にはいろいろや役目の下役人がいます。
時代劇では、白いたすきを頭の着物に掛けて棒を持っている下役人です。
偉そうなことを、庶民に向かって言います。

 

正式には、武士ではありません。
士分ではないということです。
じゃ、なんちってというか、準じた扱いです。
吉田忠左衛門の配下です。
この度の討ち入りも、ただ一人の足軽での参加です。

 

この身分では、参加する必要はありません。
1000石の重臣で参加していない者もいますからね。
いつもはあれだけ、身分が高いと偉そうなことを言っても、討ち入りと言うと、「無理」と最後まで付いて来ません。

 

起請文を提出して、神に誓ったのに、内蔵助の「神文返し(しんもんかえし)」になると、ほっとして、納得する。
あれだけ、主君のあだ討ちしょうねっ指きりしたのにも、かかわらず、一抜けたと退散です。

 

きっと内蔵助も、身分低い足軽の寺坂にも、そこまでの必要なないと諭したはずです。
吉右衛門、ようここまで、忠義を尽くしてくれた。十分の忠義。殿もお喜びのはず」
「それはどういう意味でごさいましょうや?」

 

「これから討ち入るは、ご政道に背く大罪。命ばかりか、血縁一族に類の及ぶは必定。義理立ちして、このまま討ち入るにあらず、無用じゃ。今日までよう忠義を尽くしてくれた。
殿に成り代わって、内蔵助、礼を申す」

 

「ご家老、嘆かわしい」

 

「待て、吉右衛門。これは否ことを」
「そうではありませぬか。身分軽き身なれど、忠義の気持ちに重きも軽きもございません」

 

「う・・・む」
「ここまで、ご一緒にして来て。お主は身分軽き足軽なれば、討ち入りの名に傷が付くとおおされるか?」

 

「左様では・・・」
「天に誓い、神に誓い、主君の無念を晴らすが武士の道、最後まで身分の隔てをされるとは、この吉右衛門、嘆かずにおれましょうや」

 

男泣きする吉右衛門の姿があった。

 

「泣くな。泣くな」
「・・・・・」

 

吉右衛門、そなたは赤穂の浅野家臣じゃ。誠の家臣であればこそ、ここまで就いて来てくれた。儂が浅はかであった。なれば最後の最後まで、死ぬるまで、赤穂の家臣であるな。今一度、神に誓って、問う」

 

「神に誓こうて、二言はありません。死ぬまでご家老様のご指示に従います」
「それでこそ、浅野の武士じゃ。最後の最後まで、この内蔵助の命(めい)は殿の命じゃ」

 

「ははぁ」
「それでこそ、武士じゃ。浅野の武士じゃ。武士に二言はないぞ」

 

こんな会話があったかは不明です。
でもあったはずです。(この会話、後で関係します)
上に立つ者、細かい気遣いは必要です。

 

ですから、寺坂吉右衛門は、武士です。
身分は違えど、主君に仕えた気持ちは同じです。
最後の最後まで、足軽風情と侮られることはないはずです。
士分でもないにもかかわらず、忠義を示してのですからね。
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『四十七人目の浪士』池宮彰一郎著 新春文庫から出ている本は、この寺坂吉右衛門信行が主人公にして、書かれた討ち入り後の所から始まる小説です。
斬新ですが、面白いです。

 

これが上川隆也主演で、NHKの「金曜時代劇」『最後の忠臣蔵』(さいごのちゅうしんぐら)(2004年)としてドラマになりました。
こちらも、なかなかの出来で、私の記憶に残る名作です。
吉右衛門は、83歳まで行きます。当時としては、大変長生きです。

 

吉右衛門が、後になって「寺坂筆記」というものを記しています。
なかなか、真偽のほどが伺えません。

 

『寺坂雪冤録』(伊藤武雄著 昭和10年)、『伊藤十郎太夫覚書』、なる文章も元にかかれるところによると、それによると泉岳寺まで、一緒に同行して、泉岳寺に入る前に、内蔵助の密命をうけていることになっています。(『「忠臣蔵」の謎学』中島康夫監修 青春出版社 参照)

 

しかし、討ち入りの墓参の報告をさせずに、使者に立たせるだろうかと思います。
いつ抜けたか、どのようにして抜けたのか不明でありますが、私の推測です。

 

誰か手引きした者がいるはずです。
着替えの服装も必要です。
昼間に、火消しの格好では動けません。

 

本人は、生き残ったのですが、あまりこの辺のことを言いたがっていません。
そんな風に思われます。
そして、事件の後に手控えにしようと思い出しながら書いたのが、「寺坂筆記」です。
記憶違いもあります。

 

長い間、吉田忠左衛門の娘のところで過ごします。
この家の主人が、伊藤十郎太夫ということになります。
さっきの覚書を記した人です。

 

あくまでも、寺坂の言った事が、真実かどうか分かりません。
なにせ、当時はお尋ね者ですからね。
大罪を犯した張本人です。

 

小説の中で、最初に行ったところが、三次浅野の下屋敷です。
瑤泉院(ようぜんいん)に会いに行きます。
瑤泉院は、亡主君・浅野内匠頭長矩の妻、阿久里(あぐり)です。
お家断絶後、実家の世話になっています。

 

そこに、ご報告です。
用人の落合与右衛門は、この知らせを成した寺坂を、身分軽いものとして、さげすんだ上に、知らせを受けた瑤泉院が直接会って、話がしたいというにもかかわらず、これを断ります。

 

待たすだけ待たせて、目通りする身分のものでないと、茶湯さえ、足軽風情には無用と追い出します。
火の気もないところで待たしたままです。
せめて、労りのやさしい言葉と温かい茶ぐらい出せよ。

 

これが武士です。
屋敷に来たことも口外するなと、念押しです。
三次浅野家に類が及ぶと考えての言動です。

 

しかし、これが当時の武士の感覚です。
主君の忠義もない時代です。
この御仁も高禄ながら、主君の大事に、一目散に逃げ出す輩です。
嘆かわしいことです。

 

こうなることは、分かっていました。
しかし、知らせるのが、吉右衛門の最後の役目です。
この後、弟の浅野大学にも、幾年かがりで報告に行きます。

 

この後は、人生いろいろです。
不思議なことだらけの人生が待っています。
それでも83歳まで、生きた、いや、生かされたと言えます。

 

今にしては、言いたい真実もあるでしょうが、それも内蔵助との約束があったように思われます。

 

最後まで、生きろと言われたとしか思えません。
死にたいと思っても、天命がある以上、死を選ぶことは出来ません。
急がないでもいつか行けます。

 

それは、分かっています。
急いでも、天命が済まないと、受け入れてもらえないように思います。
見える天命、見えない天命、あると思います。

 

今日あるは、必然です。
今あるをありがたいと感謝したいです。

 

平凡な日常です。
それでも、それが本当の幸せであったと思えるころには、すでに幸せではなくなっています。
今日も、何もなく平穏無事に過ごせることを、祈るばかりです。
ありがたいです。

 

最後まで、長い一人芝居にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。