''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

仏の世界に見る数と宇宙

昨日は、数学と宇宙と言う哲学的なタイトルとなりました。

堅苦しいと思われたかもしれません。しかし、人が生きると言うのは何かしらの世界に属しています。それは社会と言う枠だけでなく、自然の中の一因としても人です。

因果応報は、原因と結果によって引き起こされます。
何か原因がある。そのために結果が生まれる。良い原因には、良い結果が生まれます。

人も数も同じことです。1、2、3、4、の次は6でなく5です。どちらでもいいようですか、物事には順番があります。人としての道にも道理であったり、筋道があるはずです。それを飛ばしてしまえば、社会でも上手く生きていけません。当然です。

その道を説いたのが、わたし的に言えば「仏の世界」です。世の中には多くのすばらしい道が存在しています。私にご縁があったのが「仏の世界」であっだけです。

難しい宗教論には興味がありません。おのれの前に道がある。その道を一歩一歩進むだけです。私の見える道は、その道しか見えませんし、有りません。それだけです。

生まれてくる場所や時代が違えばもっとあったのかも知れません。
でも、偶然の偶然は必然です。これが私に用意された道なんです。

禅の言葉、禅語に「萬法帰一」(ばんぽういちにきす)と言うのがあります。

簡単に言えば物事は「1」から始まり「1」で終わるというような意味です。
簡単そうで奥の深い言葉です。森羅万象、この世に生きとし生けるもの、すべてに当たる言葉でもあります。生まれて必ず死ぬ。例外はありません。

じゃ生きると言うことは死ぬことですか?

そうとも言えますし、違うとも言えます。
結果だけで言えばそうかもしれません。

これも萬法一に帰すです。残酷な言葉ですが、そんなことはないでしょう。
楽しい事もあります。悲しいこともあります。怒る事も、怒られる事もあります。

美味しいものも食べることもあります。四季の花を見て、鳥の鳴き声に耳をすまして、花の香りを楽しむ。家族の生活があり、子供のうれしい顔を見て、心和む。和気藹々と食卓を囲み、一日の出来事を語る。これもすべて、人の死ぬまでに入っているんです。内容盛りだくさんのボリームです。

つまり、死があるから、生きるがある。

それも萬法一に帰すです。楽しげな言葉です。

難しい言葉を知らなくても、知らず知らずに行っているんです。
本来の人の営みです。ごくごく普通に生活する、これも萬法一に帰すです。

これが仏の宇宙感だと私は考えます。わたし的には、こんな仏の世界に住んでいます。住人です。いや、構成するパーツかもしれません。パーツは奢(おご)りです。私がいなくてもこの宇宙は存在します。いたことすら印されないパーツかもしれません。でも、ここにこうして存在しています。

生かされているんです。自分勝手に生きてはいません。勝手に生きるなら、自分の力でこの宇宙から出て行くべきです。そんなことは出来ません。

あなたを生かしているのは「神様」かも知れません。一人一人生かされている「宇宙の主」は違っても、誰か何かに生かされているのは事実です。

じゃもう少し謙虚にそれを自覚する必要があります。何故そこに存在しているのか?
考える必要があるはずです。必要だから存在しています。

そんなときに、あなたの「主」に対して「感謝」は必要です。謙虚に生きれば「感謝」の気持も言葉も出ます。

ありがたいを感じる世界に、宇宙に、私たちはいます。

数が教えてくれた存在が今ここにあります。

素人の「浅はかな考え」にお叱りはごもっともです。でも感謝して過ごすことはありがたい事であり、尊いことに違いはないと思います。


ときに自分の存在意義を問い返すことも必要です。心穏やかなれますよ。
大抵の悩みも小さく感じます。

私には、これと言って幸せになれる「壺」も、「おフダ」も「お石」も販売していません。
今日も最後まで読んで下さった方にお礼申します。これだけです。
ありがとさんです。