''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

謎学の旅 『「忠臣蔵」の謎学』の疑問に学ぶ  「城代家老と筆頭家老(国家老上席)」 1話 より。 

忠臣蔵と言えば、赤穂事件を題材にした歌舞伎や芝居、映画やドラマの定番です。 

私も播州の産にして、赤穂浪士は興味深い内容です。 

 

そんな中、デスクの横に、いろいろな赤穂浪士の愛読の書物を置いています。 

そんな中に、『「忠臣蔵」の謎学』(全国義士連合会事務局長 中島康夫監修)の1冊があります。 

 

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そんな中に、疑問の記載があった。 

映画では、内蔵助を「御城代」と呼ぶシーンが記憶にある。 

でも、この時の御城代は、大野九郎兵衛であって、内蔵助は国家老上席、平たく言えば、筆頭家老です。 

4人いる家老の筆頭の家老です。 

家の格式も、1500石で藩で一番の石高を領する重臣です。 

 

ただ、城代家老と筆頭家老(国家老上席)はどちらが上席に位置するのかと言えば、中島氏曰く、城主の殿がNo.1なら、城代家老がNo.2で、国家老上席の内蔵助はNo.3と書かれています。 

それが何か違和感がありました。 

いろいろと調べましたが、藩にも拠りますが、多くの藩では、城代家老と筆頭家老(国家老上席)では、城代家老が上だと言うのです。 

 

それでも少し違和感があります。 

ただ、城代家老と言うのは、参勤交代で不在の際の実質のNo.1だと言うのです。 

それでも違和感があるのは、御城代の大野九郎兵衛は、財務担当の家老です。 

家格は浅野家の末席家老650石です 

内蔵助の1500石の半分にも満たない家柄で、城代家老と言うのは、違和感がある根源です。 

 

大野は藩財政の運営と塩田開発に手腕を発揮して家老に取り立てられた。赤穂事件時にはかなりの高齢だったと見られる。赤穂藩番頭の伊藤五右衛門(450石)は弟といわれる(一説に甥)。 

元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野長矩吉良義央への江戸城での刃傷により、浅野長矩切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。筆頭家老大石良雄に大野は赤穂城での評定を主宰して、大野は開城恭順を主張し、籠城を主張する大石派の藩士と対立した。また、分配金の配分では大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、大野は石高に応じて配分すべきと主張している。結局、大石の意見どおりに配分され、大野は藩内で孤立を深めた。 

特に大野は、足軽頭原元辰と札座奉行岡島常樹の兄弟と対立した。大野の原兄弟への憎悪はかなり深かったようだと言われている。また大野は、岡島の部下の小役人達が改易の混乱に乗じて金銀を奪って逃亡する事件をとらえて、岡島も一味に違いないと吹聴したといわれる。これに激怒した岡島は、4月12日に大野邸に乗り込んだが、大野は会おうとはせず、やむをえず岡島は大野の弟の伊藤五右衛門邸へ行き、伝言を頼んで帰った。 

しかしその日の夜、大野は子の大野群右衛門とともに家財を置いたまま船で逐電する。よほど慌てていたと見え、幼い孫娘を屋敷に置いたままにしたうえ、女駕籠にて逃げたことが堀部武庸筆記に記されている。(ウィキペディアWikipedia)』参照) 

 

とりあえず、評判の悪い方のようです。 

そんな御人に、内匠頭は、No.2の城代家老にするだろうかと言う疑問もあります。 

経理に有能な家老と言うだけで、譜代の筆頭家老を差し置いて、No.2の城代家老 

するだろうか? 

すでに、高齢であったとされる御仁ですから、その意味でもNo.2の城代家老だったのかしれません。 

 

世の中の常ならん事ながら、経営者と言うのは、平時においては、何をしているのか分からないことが多いですが、有能な経営者は、一大事に難曲には、頭角を現すものです。 

普段は、No.2の城代家老であっても、会社倒産となれば、一目散に逃げるのは、武士道でも下の下でしょう。 

後世に笑いモノとされることが多いです。 

 

これらの所業から大野は人々から不忠臣として扱われ、長く庶民から憎まれ続けたいた 

大野邸跡に残る柳の木は不忠柳と呼ばれているとも聞く 

歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』では、大野は悪役「斧九太夫」として登場するのは有名な所です 

 

「伴閑精」と称して、京都の仁和寺の辺りに住んでいたという記録もあり元禄16年(1703年)4月6日に衰死して東山の黒谷に葬られたことも書かれている言う 

 

可愛そうな気もするが、武士としての忠義と言うモノが、否定されるご時世にあって、武士としてはそう言うモノであったのかもしれない。 

その分、忠義通した生き方は、当時の武士の憧れがあったように想えて仕方ないです。 

 

忠臣蔵の47人の多くが微禄の家臣が参加しているのも、そうした武士道としての忠義を全うしたいと言う願いが有ったように思えます。 

内蔵助のように、大大名の池田家、山形城の城主であった鳥居など多くの有力大名と血縁のある御仁なれば、1000石、500石辺りなら、士官は容易であったはずです。 

血筋から言えば、本来の池田本家筋です。 

悪い籤運を引いたのか、それとも、武士道の忠義の鏡として後世に名を遺したのか、容易に判断はつかないですね。 

 

それど、赤穂事件には、まだまだ分からないことが多すぎます。 

ささやかながら、知る限りで書き記したいところです。 

 

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