年末年始を含んだ冬休みに入りました。
娘のゆうゆうは、どうも運動センスが良くないです。
親2人のDNAを受けていますので、言えた筋ではありません。
娘に罪はないです。
でも、学校の運動の課題がある以上、仕方ないとは癒えません。
鉄棒であったり、マット運動であったり、試練が続いています。
そんな中、縄跳びの特訓が続いています。
父が鬼の形相で、厳しく指導しています。
最初の2日程指導で、形にはなりました。
最初は、変える飛びのような腕の回しでした。
縄跳びの形すらなっていません。
それを指導して、5日目にして、人並みになりました。
まだ、調子の良い時で、20回ほどしか飛べませんが、十二分です。
本人も、飛べるので、練習は続けてくれます。
お友達と学校で、縄跳びで遊んでいるようです。
近くの遊歩道の公園で、猛特訓です。
夕刻も暗くなるのが早いので、20分ほどの練習を続けています。
それでも、形にはなって来ました。
厳しく指導した甲斐がありました。
先生にも、面談で、急に縄跳びが飛べるようになったと褒めて下さいました。
まぁ、それでも普通の子供さんの縄跳びには、未だ追いついていません。
一緒に遊べる程度です。
それでも、本人は楽しんで練習してくれます。
ありがたいことです。
何にも形は必要です。
落語『淀五郎』でも、名題になったばかりの淀五郎が、暇乞いに訪ねた仲蔵に、いろいろと親身に相談に乗って貰います。
私の中では、圓生さんの諭の落語が好きですね。
タイプの違う金馬さん諭の台詞も好きですね。
判官の切腹シーンをやって見せている最中、仲蔵が「誰の形でやっているのか?」との問いに、「誰の方でもない」と答え、「それじゃ形なしだ」と笑いを誘います。
自分がやらない芝居でも、見ておかなくてはならないし、人に教えてやってもいいと、諭します。
当時の歌舞伎の世界は、出自によって、出世の道が決まります。
その大部屋あがりの稲荷町から出た役者が名題になるのは、異例と聞きます。
見込みがあるから、師匠は辛く当たる。
もっと上手くやれるはずだと、もっといい役者になれるはずだと、期待していると仲蔵も言います。
でも、師匠は、家臣の自分が殿様にああしたほうがいい、こうした方がいいとは言えないと言うのも、ある意味筋です。
芝居の上では、主人と家臣です。
切腹シーンでも、近くに寄って来ません。
淀五郎は、仲蔵の知恵で、何とか工夫を見つけます。
多くの人が、共感するシーンだと思います。
仕事上の上司とのトラブルは多いです。
指導の仕方が逢わないと思う事も多いのも事実です。
プレーヤーと指導者は違います。
教えるのも、テクなんですよね。
師匠が、見て覚えろと言うのも、筋です。
ただ、どこを見たらいいのも分らないのが現状です。
そこまで、丁寧に教えたら、自分の工夫を覚えない内に、1人前になった時、すぐにどこかで仕事上問題にぶつかった時、独りで解決は出来ない要になりますからね。
教えて貰って出来ることと、出来ないことが世の中にはあります。
禅の言葉に、「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言うのがあります。
「不立文字(ふりゅうもんじ)」とは、禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達の他に、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味だと聞きます。
それに似ているかもしれませんね。
芸の世界も、もっとでしょうね。
特に伝統芸能の世界は、家の芸があれますからね。
工夫の余地も、限界があります。
その中で、自分の色も芸を出すのは、至難の技だと思います。
芸道は、難しいでしょうね。
最近、話芸でも、特に講談が人気になっています。
講談師の神田伯山先生の影響でしょうね。
あくまでも、1人のスターが出たことによって、寄席に多くの人を招きます。
また、落語の世界でも、女性の落語家の桂二葉さんの出現で、いろいろと落語を聞く裾野が広がったような気もします。
漫才でも、M-1の登場により、やはり、漫才の裾野が広がったと思います。
やはり、芸人は、売れてなんぼです。
名人芸でも、世に知られていなければ、その芸に光が当たらないです。
また、その周辺にも芸の光が当たるのだと思います。
寄席にも、多く方が来られて、ライブの楽しさも感じられることでしょう。
7歳児ゆうゆうも、少しでも縄跳びが出来れば、よりお友達との輪も増えるのかもしれません。
少しでも、上手になろうと精進しております。
父としては、それに付き合うことだけしか出来ません。
私としても、やれることは、やるだけです。
冬休みは、大変です。
こんな毎日が続くのは、ちと辛いです。
耐えるしかありません。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。