12月に入って、今年もこの1ヶ月で終わりかと思うと、何だか背違ないですね。
今年の大半が、コロナの影響で、息苦しい日々を過ごしていたことになります。
6歳児のゆうゆうも、「コロナが終わったら」と言うのが、定番の北区、旭区、天王寺区、いえいえ常套句(城東区)になっています。(大阪限定の笑いです)
笑いと言えば、先日、【講談】神田伯山「東玉と伯圓」in新宿末廣亭(2020年12月15日口演)をYouTubeで見ました。
笑いと言うより泣き笑い、講談の語りに聞き入りましたよ。
この講談の「東玉と伯圓」が、初代伯山関係の講談があるとは知りませんでした。
この日の出来は、私の好きな人情噺にもなっていて良かったです。
それに、12月15日に赤穂義士をやらなかったのは、それは国宝(松鯉先生)にやって貰えばと言う落ちも笑いが出来したね。
確かに、12月と言えば、極月半ばの14日、赤穂浪士の討ち入りです。
少し前まで、12月になれば、どこかのテレビ局で、赤穂浪士や忠臣蔵の映画かドラマが定番でしたからね。
古い映画も見直してもいいですね。
定番の忠臣蔵でなく、深作欣二監督の『赤穂城断絶』 (1978年 「The Fall of Ako Castle or Swords of Vengeance 」) は、少し型破りの忠臣蔵であり、内蔵助の最後の切腹シーンまでの廊下に棺が並べてあるシーンが、印象的でした。
内蔵助役の萬屋錦之介の独特の台詞回しと言い、好き嫌いのあるところでしょうが、私は好きですね。
子連れ狼の拝一刀といい、破れ傘刀舟悪人狩りの叶刀舟といい、破れ奉行 の速水右近といい、型に治まらなかった主人公役が、私の子供の頃の時代劇の核を成しています。
上岡龍太郎氏によると、芸とは、無駄の排除だと言われていました。
下品な芸が、無駄を排除されて来て、芸になるのですよね。
その為には、時間も掛かるし、演者も入れ替わる。
残った来たのが、落語なら古典でしょうね。
歌舞伎もそうですね。
そうそう、三遊亭圓生師匠の落語『淀五郎』の中で、名代になった淀五郎が世話になった仲蔵に別れの挨拶に行った時、察した仲蔵が淀五郎の切腹シーンを見て、「誰の型でやっているのか」と尋ねた時、淀五郎が「誰の型でもない」と言ったセリフの中で、「それじゃ型なし」だと笑いを誘うシーンがありましたね。
型は大事です。
無駄の排除されたのが、型ですからね。
我が家でも、今月のクリスマスに向けて、何度目かのクッキーを嫁が焼いてくれました。
クリスマスのベルに、靴下、ハートの型で抜いた抹茶クッキーです。
型抜きは、6歳児ゆうゆうも手伝ったくれました。
焼き上がりも上手くいっています。
食後のコーヒーを飲むときに、このクッキーを摘まんでいます。
なかなか美味いです。
もちろん、6歳児ゆうゆうも食べますよ。
12月がゆっくりとそうした毎年の型にハマっていたのが、何だか遠い昭和の時代のような気がします。
昭和も遠くなったものですね。
忠臣蔵、クリスマス、大晦日、正月と型抜きをしたかのような、異口同音の人々の師走、年末年始の過ごし方が決まっていたモノです。
令和はどんな年になっていくのでしようね。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。