''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

細川三斎と利休の師弟愛。


細川三斎(1563~1645)幽斎の嫡男、通称与一郎、名前は忠興(だだおき)。
妻は有名なガラシヤ、明智光秀の娘です。

利休が堺へ蟄居を命ぜられ、淀の津から堺に向かう際に、三斎と古田織部が見送りに出向いた。堺への下向は急に命ぜられて、知らせることは出来なかった。

もちろん、それは秀吉への謀反ともとられかねない状況下でもあったはず。
極秘裏に情報をつかんで、最後のお別れです。
イメージ 1

それを押してもの師弟の愛でしょうね。
このまま、切腹の覚悟もあったはずです。
今生の別れがそこにはありました。

利休は罪人扱いで、ましてや会話はすることなく、橋から遠くに見えるほどの対面です。
目と目を合わしてのそれだけの対面が、最後のお別れです。
ぐっと、ぐぐっと心に惜別の悲しさがそこにはあります。

大納言秀長病死後、秀吉の母、大政所も妻のおねの北政所も、多くの女どもの嘆願もありました。
自分の信念のために、千利休は秀吉に詫びを入れません。
この辺は「ぶれません」ね。
政治家いや政治顧問としてでなく、一人の人として「ぶれなかった」のが、すごいと思います。

天正19年(1591)2月28日、朝から大荒れの天候で雷がなり、雹(ひょう)が降ったとあります。
検使役を迎え入れ、一会の茶事の後、切腹
介錯は、蒔田淡路守(まきたあわじかみ)。
秀吉の実検を受けずに、直ちに一条戻り橋で晒(さら)された。
25日付けの辞世。

これに対して古渓和尚から、「末後の一句、そもさん(いかにも)」と答えと記されています。

茶人として、一人の人間として、自分の信念を曲げない一途な道です。
人として、侘び寂びの果てにある人としての死です。

利休らしい最後といい、辞世の文字です。
ぐっと切迫を感じます。
そこにあるのはどんな境地でどんな答えなのでしょう
「そもさん」
「せっぱ」

太閤秀吉にも、惜別の無念はあるはずです。あったに違いないです。
一言詫を入れてくればと思う思いがあったのかもしれません。
静かな一日、涙にむせ返る一日でもあったはずです。

人の生きる世の難しさ、人として生を受けた以上、死は必ずやって来ます。
その時、自分の生きた証があるのは素晴らしいことです。
幾年の歳月を越えてもその証が息衝きます。

人生の終焉、それは如何に生きて来たかの、最後の問いかけでもあるように感じます。
仏縁を頂いた者として、生かされいることを実感します。
ありがたいと感謝の念を感じます。

心静かに、この日を過ごしたいと感じております。
合掌

最後まで、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。