いやはや、今日2月28日と言えば、旧暦での利休居士の祥月命日でしたね。
利休居士は、天正19年旧暦2月28日(1591年4月21日)に秀吉の命により切腹しました。
ただ、千家ではその1ヶ月後を命日としているとも聞きます。
また、最近流行りの俳句でも、利休忌という季語がありますね。
千利休の祥月命日である旧暦2月28日、新暦では言うなら3月か4月頃、京都の大徳寺では3月27日と28日に利休忌が営まれていると聞きます。
利休忌には、利休の姿を描いたお軸と菜の花を飾り、利休居士にお供えする茶を点てて、集まった人一同でお薄を頂くとも聞きます。
我が家でも、なにかしようと言えば、嫁が抹茶ブラウニーを作って、それを嫁のマイブームのパフェに仕立て、頂きました。
真ん中に、バニラアイスを配置しています。
7歳児のゆうゆうも、バニラも抹茶も愛すって感じで、大好物です。(今日は、ここしか笑うところありませんよ。ねぇ、とおるちゃん!!)
生クリームやバナナ、トッピングのチョコとチョコレートソースを使っています。
もちろん、嫁手作りで、7歳児の娘もお手伝いしてくれました。
嫁と結婚する前に、利休の最後の手紙を、嫁と見に行きましたことを思い出します。
京都から堺に送られる利休を見送るために、古田織部、細川忠興の二人だけが見送くったと聞きます。
利休は、切腹する前に茶杓を2本削って、この二人に与えましたとも聞きます。
手紙は、細川家の家老の松井佐渡守宛です。
「三斎、織部見送りの礼状ー松井佐渡守宛 松井文庫蔵」 ですね。
いろいろな配慮が見え隠れしています。
秀吉は、二人で利休を見送ったことは知っていたと思います。
それだけでも、謀反とみなされてお家取り潰しと切腹になる可能性もあったでしょう。
命がけのお送りだったでしょうね。
利休切腹にも不明な事が多いですが、直接的な原因は、「木下祐桂の讒言」でしょう。(「茶道四祖伝書」より)
本当の理由は、利休と秀吉公の溝でしょう。
その引き金が、たまたま木下祐桂だったというだけだと感じます。
後世の人によって、いろいろと理由が付けられただけでしょうね。
松の廊下で、「鮒よ鮒よ、鮒侍よ」なんてことが、身分のある高家が言うはずでがありません。
そう言うと面白だろうなというのが、お芝居の世界です。
畳の張替の事実もありません。
たまたま、心の病があっただけです。
利休も心を硬くして、自分の世界を変えなかった。
茶の湯の求道者として、道を歩み出して行くしかなかったのでしょう。
天下人の命で道を曲げるわけにも、いかなかったでしょうかね。
私も家の前の大道を、長安に行こうと思って、道に迷ってしまうばかりです。
迷える羊なら、違う道の救いもあるかもしれませんが、迷える豚さんに救いの手は、ないかもしれません。
もう少し痩せねばなりません。
日々こちらも努力中です。
朝ごはんのごはんの量も減らしています。
ただ、嫁と娘の作ったパフェは、頂きました。
私のパフェは、真上からの写真で見えにくいですが、有田のアイスクリーム皿ですので、それほど量は盛られないようになっています。
何事も日々の努力や精進に他なりません。
道とは、どんなものなのか? 到達した極みなんでしょうね。
いえいえ、到達した事すら満足しない究極の道かもしれません。
キングダムでは、「一度足元を静かに見直せさすればすでに答えは出ている。 暗闇の中そなたは道の終着の地に立っている。」と、李牧は晋成常に伝言した言葉も、意味深いですね。
何事も日々の精進しかありません。
私にできるのは、こんな下らぬ記事を書いて、今自分がこの世に存在している事、仏の世界から垣間見た凡夫として、観音様を身近に感じて、嫁と子供と共に、目の前の道を歩むだけです。
ありがたいと手を合わせて、感謝する日々の暮らしだけです。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。