''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

我が家のスィーツものがたり みたらし団子 より。

♪串に刺さって 団子  団子三兄弟
そんな歌が流行りましたね。
だんご3兄弟」(だんごさんきょうだい)(作詞・佐藤雅彦、作曲・内野真澄、作曲・編曲・堀江由朗)です。

でも、この作詞をされた方、よく団子の事を知らないんです。
団子と言えば、実は、4兄弟なんです。

基本は、串に4つ刺さって団子なんですよ。
小さな団子なら、3つでもいいですが、和菓子屋さんで売られている大きな串に、団子が3つでは、見場が悪いし、それに食べにくいです。

それが、団子3兄弟になって、3つにされている和菓子屋さんも多いと聞きます。
うーん、どうだかなって感じです。
そうかい阿藤快ってね。
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嫁が、白玉粉と豆腐を入れて、みたらし団子を作ってくれました。
いやはや、家で団子も食べられれば、満足です。
和菓子処の名店・栄泉堂には及びませんが、これはこれで美味しいです。
いつも美味しいごはんや菓子を作ってくれて感謝しています。
ありがとさん。

そう言えば、今日2月28日は、茶聖・千利休のご命日でしたね。
天正19年2月28日の事です。
もちろん、切腹されての黄泉の旅立ちでしたね。
私のブログでも、その原因をいろいろと詮索しています。

利休居士辞世の和歌「おかめにおもいおく」より で書き記しています。
http://blogs.yahoo.co.jp/kantoshoue/36749040.html
父親が、娘を思う気持ち、今年になって初めて実感出来るようになりました。
私も、忠興公が言われるように、木下祐桂の讒言が一番の直接的原因でしょうね。
「細川三斎茶書」の記述は、ある程度信ぴょう性があります。

その讒言が、秀吉公の突発的な原因を呼び起こしたと言う事です。
触れてはならない天下人・秀吉公と利休居士の確執です。
三角は安定したバランス形です。

もう一つの三角形の存在が、秀吉の弟 羽柴秀長です。
天正19年(1591)正月22日に亡くなったのが、二人にしても大きな痛手でした。

それも、1590年(天正18年)の小田原征伐(おだわらせいばつ)は、その片鱗がはっきりとしていました。
小田原征伐には、体調を崩して、秀長は参陣出来ていません。

かの有名な利休の手製の花入れ「園城寺」の割れは、二人の関係の象徴です。
たたき割った秀吉と、それを捨てずに穴が開いても花入れに使った利休の進む道は、ここではっきりと決別しました。
ですから、秀長の死後、すぐに事件は起きたのです。
膨らみきった風船の結末ですね。

本当は、誰かに止め貰いたかったはずです。
後悔が、秀吉の気持ちに残ります。
これも、歴史ですから、もしはありません。
大悟して利休にすれば、自分の作った茶の湯の完成の世界の結末にしたかったとでしょうね。

それでも、娘の亀には。言いたい事もいろいろあったと言う事です。
特別な存在だったに違いありません。
娘は、長女の茶人千紹二の室、吟、三、亀との4人です。(女の6人いたようです)
そう娘4兄弟です。

息子は、道安、田中宗慶、清蔵主、後は夭逝しているようです。
この田中宗慶は、庶子ですが、一番最初の利休の子供のようですね。
それに、この方が楽家を代表する5人いる長次郎の1人です。(『楽茶碗』(磯野風船子著 河原書店刊 1961年)より)
「5人の長次郎物語 より。」と言う記事をブログに掲載しています。
http://blogs.yahoo.co.jp/kantoshoue/37536458.html

その中でも、亀だけに、手紙を残しているとことになります。
何か特別なものを感じます。
今記事を書いている私の横で、愛娘ゆうゆうが眠っています。
愛らしい寝顔に見入りますよ。

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、和菓子に居士つけた話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。