''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

5人の長次郎物語 より。

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一楽、二萩、三唐津と焼き物の事を表す言葉です。
その中でも、楽茶碗は茶の湯の中でも特別な茶碗と言えます。

 

先日、『楽茶碗』(磯野風船子著 河原書店刊 1961年)という本を手にしました。
磯野風船子とは、大河内風船子とも、本名の磯野信威の名前で、著書が発刊されています。

 

長次郎から始まる楽茶碗の研究された書物です。
初代長次郎にも、いろいろな推測されているところが、大変興味が湧きましたね。

 

初代長次郎が、千利休の創意作為の中で、作ったのが楽茶碗です。
利休は、黒茶碗が、自分の求める詫び寂びに通じる茶碗と思われていたと思います。
ただ、天下人秀吉公は、黒茶碗は好まれず、派手な赤茶碗が好みと聞いております。

 

長次郎の赤茶碗では、「銘 早船」や「銘 木守」が有名です。
何とも風情がある茶碗です。
割れがあるので金と漆で接いであります。

 

早船と木守の赤釉は、同一でやや茶がかった赤でありもノンコウ以降のごとき赤みがない。
また、早船は、腰のところにじかに火を受けたのか、カセて、青みを帯びている。
(『楽茶碗』磯野風船子著 河原書店刊 引用)

 

確かに真っ赤な楽茶碗ではないです。
この早船は、利休が松賀島殿こと蒲生氏郷に差し上げている。
利休の書簡の中に見られるようです。
蒲生氏郷が伊勢松カ島城にいた天正13年から16年(1585-88)の間の手紙と推察されると同著に記されています。

 

この早船を細川三斎が欲しがったが、それが同じく記されています。
まだ、細川三斎が未熟であったこと由来するらしい。
それらから、早船の製作年代を天正13年と著者は推測されています。

 

早船は、長次郎七種の一つと言われます。
その銘の由来とは、『松屋会記』によれば、細川三斎・古田織部蒲生氏郷の三人が利休との茶会に臨んだとき「早船」が出された。

 

三斎がこの茶碗は何焼きかと尋ねた。利休は「早船を仕立てて高麗から取り寄せた」と答えたとの逸話が載っている。
しかし、別の話では、「早船」の銘は、利休が大阪にいたとき、たまたま、この茶碗が入用になり、京都から早船を仕立てて、取り寄せたとの話が伝えられる。

 

この茶碗は、利休が最も愛玩していたとされ、天正年代の中ごろ、蒲生氏郷細川忠興がこれを所望したため、その処置に困惑したことをしるした、利休の書簡が付属している。また箱の張り紙の「はやふね」の文字は、利休筆と伝えられる。

 

では、この茶碗の作者、長次郎とは何者でしょうかね。
長次郎の父は、あめや(飴屋)、母は比丘尼(あめや妻)とも記されていると聞きます。
父飴屋は、朝鮮人で、母は日本人のようです。
そして、この長次郎も朝鮮人であったか、それとも日本に来てから生まれたものかは、不明のようです。
母の比丘尼は、佐々木氏の出自であり、父飴屋も一時佐々木姓を名乗っていたとも書かれています。

 

長次郎の一番早い作品は、獅子留蓋瓦に彫銘があります。
瓦製造業者であることが言われています。
あの楽茶碗の感じは、やはり瓦のイメージでもあります。

 

長次郎の茶椀には、型が使われています。
長次郎も死後も、長次郎の茶碗が製造されていたようです。

 

著者によれば、長次郎の死亡した命日を、天正17年(1589年)12月17日と確信されているようです。
命日は、諸説あります。
『宗入文書』や『山中道億書簡』からすると、著者は上記の推測から正しいと確信されています。

 

その死後にも、長次郎の楽茶碗製造されていたとなると、誰が作っていたのか、そういう疑問になります。
長次郎は、5人いたという事を、ブログで知り合った茶の湯の先生が教えてもらいました。
「えー」と言う驚でしたね。

 

じゃそれは誰か、そんな研究に興味を持っていました。
そして、この本との巡り合いです。

 

1人目は、もちろん、長次郎の本人です。
この長次郎に息子が居たようです。
これが2人目の長次郎・長祐です。(『茶わん』昭和25年1月号 堀口捨巳博士の意見)
長二郎と記されていることもあります。

 

ただ、よく言われる楽家の二代目ではありません。
惜しい事に若くして死亡しているようです。
この2代目の妻は、庄左衛門・宗味の娘と言われています。

 

3人目の長次郎は、田中宗慶です。
初代長次郎と共に、利休の指示の元で、楽茶碗の手伝いをしていた人物のようです。
苗字に、田中が付きます。
利休の本名も、田中です。
この宗慶こそ、利休の息子という説があります。(『宗入文書』楽吉右衛門著)

 

田中姓も清和源氏を、源とする由緒のある名前のようです。
利休は、千を名乗りますが、やはり田中姓も大事な名前だったと思います。
その大事な名前も名乗らせてもらうのは、やはり血のつながった息子です。

 

しかし、そうなると、利休の享年が70歳ですから、これだけで計算すれば、利休15歳の時の子供となり、多くの専門家から疑問視されています。
ただ、著者は、利休の死亡時の年齢を、74歳くらいに想定されています。

 

確かに享年の資料は、辞世の句にある70歳とされていますが、辞世の句に74歳だとしても、七十四とはゴロが悪いでしょうね。
ですから、七十としたとすると、これでこれでありですね。

 

こうなれば、74も70も同じです。
正確な出生日の特定は出来ません。
なら、19歳か20歳近くの時に出来た子供なら、ありえます。
もちろん、姻外子として、庶子ですね。

 

4人目の長次郎は、田中宗慶の長男・庄左衛門・宗味です。
ただ、子孫が絶えて記録が残らなかったと記されています。
この人物の娘が、2人目の長次郎・長祐です。
光悦や常慶などからの指導を受けて、この娘の未亡人も、茶碗作り才があって尼焼を製造すると記されています。

 

最後の5人目が、田中宗慶の次男・吉右衛門・常慶のようです。
もちろん、こちらは楽家の二代目として名が記されています。
三代目・道入通称のノンコウの父親です。
光悦の指導を受けて、楽茶碗を継承して行きます。

 

ただ、二人目の長次郎・長祐の妻であり、兄庄左衛門・宗味の娘である姪の世話をしたようです。
ここに、田中宗慶の血筋として、二人目の長次郎・長祐の継承も受けた事になります。

 

それが元で、兄庄左衛門・宗味の孫が、秀吉公より拝領の楽の金印を持ったまま、東山双林寺に隠棲して、正当な血筋は耐えることになったことになります。(秀吉公から「楽」銀印の拝領は記載があるが、金の金印については記載がないようです)

 

これで、楽家の血筋を固めたことになります。
父の田中宗慶を、初代長次郎と置き換えれば、正統な長次郎の楽家が完成です。
こちらは、将軍徳川秀忠より「楽」印を拝領して、名実共に楽家の当主なったことになります。

 

仮に、三代目・道入通称のノンコウの妻が、二人目の長次郎・長祐の娘だとすると、
田中宗慶の次男・吉右衛門・常慶が、兄の庄左衛門・宗味の娘である姪の世話をしたのも頷けます。(これ私の勝手な推測です)

 

もちろん、世話と言っても違う意味での世話ですね。
夫がなくなり、未亡人となり、すぐに実家の父もなくなって、娘と二人では暮らしていけません。(子供の娘は、推測です)

 

それとも、三代目・道入通称のノンコウの母が、兄の庄左衛門・宗味の娘だとは考えにくいです。
幾ら強欲な次男の吉右衛門・常慶でも、姪を妻にしたとも、情けを掛けたとも考えにくいですからね。
三代目・道入ノンコウの母の記載を、見つける事は出来なかったです。
そうなると、道入ノンコウの妻が、二代目長次郎・長祐の娘なら、都合がいいはずです。

 

どこかで見た縮図ですね
利休の娘・お亀と少庵の結婚により、その子・宗旦は正統な利休の血筋になります。
似ているような気がします。

 

それにして、丁寧にまとめられた『楽茶碗』磯野風船子著 です。
学者さんかと思えば、会社の重役さんのようです。
(社)日本陶磁協会 第5代理事長さんをさせていたのを見つけました。

 

その造詣の深い見識に驚かされます。
知らないことは、知識への原動力です。
もう少し歴史の研究が進めば、真実もわかるかもしれません。

 

今後の研究が楽しみです。
まだまだ未熟な者の書き記しのメモですので、間違いも多くあります。
ご容赦下さい。

 

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁を頂いています。
ありがとさん。
この本もありがたいご縁でした。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈ります。

 

最後まで、5人の不思議な縁の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。