難しいと思われる漢詩の世界です。
なかなか馴染めないと、最初の一文字から「無理」と感じます。
なかなか馴染めないと、最初の一文字から「無理」と感じます。
しかし、昨日も話も、俳句となると庶民的に感じに思えます。
五七五の世界です。
近くの散歩の傍らに、一句ひらめいてと、俳句を詠まれる方も多いはずです。
昨日の話のを俳句で表現すると、次のようなります。
五七五の世界です。
近くの散歩の傍らに、一句ひらめいてと、俳句を詠まれる方も多いはずです。
昨日の話のを俳句で表現すると、次のようなります。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
意訳
柿を食べていると(遠くから)、鐘が鳴っているようだ、法隆寺(の鐘でしょうかね)。
柿を食べていると(遠くから)、鐘が鳴っているようだ、法隆寺(の鐘でしょうかね)。
その法隆寺の鐘と聞くと余計にありがたいと感じます。
その辺が何とも庶民的に感じます。
しかし、松岡子規は、秋をその舌と耳で楽しんでいます。
ちなみに、明治28年10月26日から、奈良を旅しこの句を読んだとの記録から、現在は10月26日を「柿の日」と定めてあるそうです。
私も知りませんでした。
その辺が何とも庶民的に感じます。
しかし、松岡子規は、秋をその舌と耳で楽しんでいます。
ちなみに、明治28年10月26日から、奈良を旅しこの句を読んだとの記録から、現在は10月26日を「柿の日」と定めてあるそうです。
私も知りませんでした。
俳句でなく、和歌で秋となれば、定家卿の和歌です。
大変有名な秋の三夕の一つです。
意訳
「周りを見渡しても、もみぢの紅葉も、桜もないけど、浦の苫屋(いわゆる漁師小屋)で見る、秋の夕暮れには、しみじみ趣が深いものだなぁ」と言うくらいでしょうかね。
意訳
「周りを見渡しても、もみぢの紅葉も、桜もないけど、浦の苫屋(いわゆる漁師小屋)で見る、秋の夕暮れには、しみじみ趣が深いものだなぁ」と言うくらいでしょうかね。
専門家の先生方、意訳過ぎましたでしようかね。
それ程は外れていないと感じています。
それ程は外れていないと感じています。
以前、この歌についてもブログの記事を書いていますが、定家卿は、絶対に浦の苫屋(いわゆる漁師小屋)には行っていないと思います。
きっと机上の空論です。
きっと机上の空論です。
正岡子規は、柿を食いながら、舌とその耳で、秋を捕らえていると思います。
しかし、定家は秋の夕暮れを見て、イメージを膨らませたと思うんです。
でも、秋の夕暮れは、京の都も、浦の苫屋でも、鴨川でも、貧家の我家でも、見られます。
しかし、定家は秋の夕暮れを見て、イメージを膨らませたと思うんです。
でも、秋の夕暮れは、京の都も、浦の苫屋でも、鴨川でも、貧家の我家でも、見られます。
きれいですよね。
夕日の色が秋は特に、色が濃く美しい感じます。
特に物悲しい気持ちにさせてくれます。
センチミリミリでしょうかね。
夕日の色が秋は特に、色が濃く美しい感じます。
特に物悲しい気持ちにさせてくれます。
センチミリミリでしょうかね。
確かに趣があり、詫び・寂びにも通じるように感じますね。
イメージの世界ですね。
イメージの世界ですね。
ここまで来ると、鐘の音も要りません。
いろいろな物で秋を感じるのですね。
いろいろな物で秋を感じるのですね。
私も柿を買って来ました。
そのまま食べるのもてです。
そのまま食べるのもてです。
それに柿を加えます。
柿を器に見立てて、くり貫きます。
柿を器に見立てて、くり貫きます。
そこに細く刻んだ柿と大根なますを和えて、柿の器に盛り付ける。
素晴らしいです。
素晴らしいです。
なかなか上手に行き気がしません。
少しテクが要りそうですね。
少しテクが要りそうですね。
成功したら、後で写真も載せることにしましょうかね。
もちろん、出来が悪いとボツ写真にして公開は控えます。
もちろん、出来が悪いとボツ写真にして公開は控えます。
秋の旬を、舌で味わうのも、耳でイメージ膨らませるのも、目で楽しむのもいいものですね。
今日も一日無事に終わろうとしています。
ありがたいと感謝です。
ありがたいと感謝です。
最後まで、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。