''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

耳で見える世界か、目で聞く世界。 空より。

最近パソコンショプに行って、いろいろな物を見ていると、どうも掃除用の道具に目が行きます。
ノートパソコンと、液晶のディスプレイ画面の汚れが気になっています。

ブラウン管のディスプレイの時は、OAクリーナーで拭いていました。
電気製品でありますので、静電気で汚れが付着します。
仕事場なんかでは、硬く絞った濡れ雑巾で、液晶やパソコンを拭かれています。

「ちょっと待った」
時代劇風「若いの、お待ちなせぇ」(幡随院長兵衛ってか?)

心の中で、異議を唱えます。
実際には、なかなか勇気がありません。
私の仕事で使うパソコンは、「自分でやりますから、いいです」って言うのが限界です。

液晶には、いろんなコートがかかっています。
コーテングされています。
コーテング職人の作業ですね。(シャボンディ諸島で出会った元海賊副船長レイリーみたいですね)

そう特殊な加工が施されています。
しかし、これを水拭すると、コーテングが取れて、結構無残な画面になります。
ですから、絶対に液晶の水拭は駄目です。
イメージ 1

専用に液晶クリーナが売られています。
15枚の濡テッシュみたいなものです。
そのお値段198円なり。これで十分です。
拭いた後も筋とかが付きにくいタイプです。

自分の目で見たいもの以外は信じないという方を時々見かけます。
確かに「百聞は一見にしかず」といいます。
何度も耳で聞いても、一回目で見る方が、理解しやすいこともあります。

しかし、人間の目で見ている世界は、実は本当の世界ではありません。
人間の目は、都合のいいように脳で加工されています。

目で見ると言いますが、本当は逆さに見えています。
目のレンズは一つしかないので、逆さまに写っています。
それを脳が今見えているような画像に処理しています。

逆さメガネをかけて、数日生活すると、自転車にも乗れるそうです。
それだけ脳には順応性があります。

そして、慣れた逆さメガネを外すと、見える世界は、今まで見ていたのと違う信じられない世界と言います。
元に戻っただけなのにです。
それだけ、人間の見える世界はあくまでも「仮」の姿です。

目の前に世界は、顕微鏡で見るなら、ゴミの世界、微生物の世界のはずです。
ウィルスもバクテリアも、うじゃうじゃいます。
それは人間の目には見えません。
その上で、きれてとか汚いとかと言います。

あくまでも、私たけが住むのは「仮」の相対の世界です。
何かに比べて、どうだこうだというのです。
見えるものも見えないものも、すべてを理解した上で、それらを判断することは出来ません。

出来るのは、絶対の世界です。
まさしく仏の世界です。
時間をも超越した仏の世界でしかありません。

禅語、つまり禅の言葉に「南に向かって北斗を見る」というのがあります。
南を見ながら、北斗つまり北を見るというのです。

そんなことは出来ません。
それは、現実の物理的なことを言っているのではありません。
ものの考え方です。

『禅語の茶掛 一行物 』 芳賀幸四郎著 淡交社によればです。
常識を離れ、科学や哲学の考え方も離れて、超越した仏法世界の立場です。
著者は、先輩の禅の修行者から、「頭で考えるな。かかとの皮で工夫しろ」と言われたと書かれています。

言っていることは意味不明です。
しかし、言わんとすることは理解できます。
常識に捕らわれている以上、そこから脱出した考えにはならない。
仏の世界は、人の常識で考えられる簡単な世界ではないということです。

ですから、「耳で見て、目で聞く」ことが必要です。
すべての見える世界は「仮」の「空」の出来事です。
しかし、この「空」の世界で、その魂を正しい方向に向かわせないと、輪廻の輪から脱出できないと言うことです。

「妙法華経」では、仏の座とは、「一切法空」にあるといいます。
その魂で、物事を捉えることは難しいです。
でも、何かの原因があって、その結果が起きるのは、明らかです。

見えるか見えないかでなく、そこに今あるかないかということだけです。
「空」に住するとは、物事にこだわらない生き方をすべきではないかと感じます。

こだわらないと気持ちは平静安心を感じます。
今あることに感謝して、生かされていることに感謝します。
朝心地よく目覚め、自分のなすべきことをなし、食をなし、酒を食らう。
そして、一日平穏に過ごせたことに感謝して、一日を終えて床につく。

これ以外に人の営みはありません。
ありがたいとことです。
人によって、なすべきことは違います。
しかし、必要とされていることに、自分のなすべき存在があります。

必ず、必要とされているか、生かされています。
「空」に住するととは言え、今ある生活は「仮」であれ、今現実をなしています。
そこから、逃れることは出来ません。

嫌なことも多くあります。
しかし、それも生活の一部です。
すべては「空」であると感じれば、苦にならないように納得できます。

架空の出来事に腹を立て、イライラするのは意味がないことです。
そう都合のいいように「空」を感じれば、それもまた違った見方かもしれません。

何も考えずに、人としての営みを繰り返すだけです。
それは意外と幸せです。
幸せをどう感じるのか、それを耳で見て、目で聞くことが出来たら、貴方はもっと幸せになれます。

今日も一日平穏無事に過ごせますに、祈ります。

最後まで、訳の分からない「空」な話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。