''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

4月の禅語「拽笥石搬心」(えいせきはんしん)より。

今日は、荒れましたね。
台風みたいな強い風に、閉口しました。
こんな中、JRで京都駅まで、向かいました。

 

物凄かったですね。
家を出る時がすご過ぎて、こらーやばいと思ったくらいです。
雨も凄いし、風も強い。
まるで、台風の暴風域みたいでした。

 

されど、やはり観音さまのご加護でしようかね。
家を出て駅に向かうまで、小康状態でした。
駅についても、何とかなりました。
ありがとさんです。
助かりました。

 

しかし、電車は少し止まっていて、45分遅れが出ていたみたいです。
私は、15分どして、乗れました。
ちょっとラッキーでしたね。

 

いえいえ、こんな嵐の日も、是好日です。
今も少し強い風が吹きます。
災害がなければいいのですがね。

 

家に帰る途中、鉢植えの木々が倒れていましたね。
よほど風が強かったと見えます。
やはり、用心が必要です。

 

いよいよ、4月です。
今年の初めに小学生の時の恩師から、日本の心「墨蹟」禅林各派、管長、師家のカレンダーを頂きました。
月の初めに、それをめくるのが楽しみです。
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4月は、南禅寺管長・中村文峰老師です。
その禅語は、「拽笥石搬心」(えいせきはんしん)です。
知らない言葉です。

 

南禅寺を開山された南院国師は、自ら土を運び、石を拽笥(ひ)き、慈悲心を実践。
搬心とはその慈悲を多くの人々につたえていくことだ。陰徳にまさるものはない。『南院録』
とその解説が記されています。

 

深い話です。
五山の上、「別格」の格式ある寺院の管長さんの言葉と思うと、尚更趣が深いです。
瑞龍山南禪寺、創建開山南院國師の700年大遠諱法要が、今年の4月1日から11日まで行われる記念の年月であったようです。

 

南禅寺と言えば、秋のもみじの名所です。
赴きも深いです。
それに門前の湯豆腐を、思い出される方も多いはずです。
景色もいいですよ。
琵琶湖疎水の水道橋のレンガが何とも言えず、南禅寺に合いますよね。

 

南禅寺とは、臨済宗南禅寺派大本山の寺院であり、山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。(Wikipedia参照)

 

ちょうど、この東日本大震災国難の折、太平興国とは、時を得た寺院名です。
今この時こそ、太平の世にあって、自然の驚異の前に、人力の非力を思い知ったことはなかったです。
やはり、み仏の慈悲が、尊い心の世界を明るくして下さいます。

 

法華経の一節にも、如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心なり」、その前の節に如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、如何にして説くべき。是の善男子善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して、しこうして乃し、四衆の為に広くこの経を説くべし」とあります。
如来の室に、如来の衣、そして、如来の座です。

 

これらが必要ということですね。
如来の衣とは、私のよく書き「柔和忍辱の心」です。

 

そして、如来の室とは、「一切法空」です。
ある解説によると、自己の利害などの何事にも囚われない心と解説されています。
人の利害や欲が、物事を鈍らせることです。

 

でも、この世は、仮の世界です。
私的に言うなら、仮の「空」です。

 

もともとの何もないのです。
禅の世界なら、もともと菩提樹も明鏡台もありません。
そんな仮のモノに、埃や塵すら付きません。

 

この世の空、それが法空かもしれません。
見えない世界なら、その仏の座も、「一切妙空是なり」かもしれませんね。
妙と法とは、一対です。
妙の世界にも法の世界にも、その仏の座があります。

 

空の中を、私達が、輪廻を繰り返しています。
過去世、現世、来世です。
魂は、その記憶はないけれど、普遍的な魂が存在しています。
過去世の縁も、現世の縁も、来世の縁も繋がっています。

 

悪いことをせずに、いい行いをする。
これによって、悪い縁が断ち切れ、いい縁が結ばれる。

 

慈悲の受け入れる心がなければ、仏のありがたい教えも、届きません。
いい縁を受け入れることが、必要です。
ありがたい仏様の縁すがるが大事だと思います。

 

南院国師さま、その慈悲を多くの人に広めることが、大事なんですね。
まさに陰徳とは、これまた見えないなら、妙徳なんでしょうかね。

 

そこに、してやっているという気持ちが少しでもあれば、それこそ「無功徳」ですよ。
見返りを求めることなく、一切衆生を救うという気持ちが必要なのですね。
私凡夫故に、なかなか、そこまで悟りの粋まで、達していません。

 

人であるが故に、すぐに見返りを求めてしまいます。(マンモスかなぴー)
その欲すら、取り去ることが出来ればいいのでしょうね。
やはり、功徳を積むまでにならないといけません。

 

それでも、ありがたいことに、私も仏縁を頂けています。
ありがたいことと感謝しています。
日々の暮らしの中、ささやかな幸せを感じています。

 

どんな時であっても、どんな苦しい時にあっても、ささやかな幸せはありますからね。
自分の分に応じた幸せを、見つけます。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

 

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事過ごせますよう、祈るばかりです。

 

最後まで、何百何千字の長い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。