''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

鷹峰山 源光庵 「悟りの窓」と「迷いの窓」から見える世界より。

今日も、秋の行楽日和となりました。
昨日は、仕事場のボスを鶴の一声のもと、秋の歩こう会に参加されて頂きました。
曇り空ながら、時折日差しもある秋の一日でしたね。

バスに揺られて、京都の鷹峯の源光庵に向かいました。
観光客でいっぱいです。
私どももその一人です。
ゆっくりと、紅葉を楽しむというよりは、写真を撮る楽しみで満足致しますね。
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真っ赤に彩ったもみぢも楽しめましたね。
この寺は有名です。
前から来たいと思っていましたが、伏見に住する私にはなかなか足を運ぶ機会の得ない土地柄です。

そんな折、歩こう会でお誘い頂きましたことはありがたいことです。
ボスのお気に入りの場所でもあります。
禅寺として知られています。
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それに伏見桃山城を死守した鳥居元忠一党1800人が、石田勢と戦い城を枕に討ち死にした血だらけの廊下の天井に用いた「血天井」で有名です。
鳥居元忠は、伏見城を死場所に決めました。

徳川家康も、誰にその任を与えるか迷った挙句のことです。
城を守るは、討ち死にをすることを意味しました。
それも、一日でも長く石田勢の戦力をここに引きつけるだけの囮です。

最後は自刃した痕跡が、あたらこちらに見受けられます。
みすみす城は渡すことは出来ません。
最後まで、その任を遂行出来たと言えます。
大任を果たしたことになります。

後の赤穂浪士大石内蔵助良雄の祖母は、この元忠の孫娘(忠勝の娘)と言う関係でもあります。
大石の忠義の血筋は、元忠譲りと言えるかもしれません。

また、この寺は開運霊芝観世音さまと呼ばれる観音さまも祀られています。
もちろん、手を合わせてきました。
開運に繋がるとありがたいです。

まずは、禅寺の香りがしますね。
本当の香りではありません。
あちらこちらに、禅の問いかけがあります。
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円い窓が、「悟りの窓」と呼ばれています。
禅の心と、円は宇宙ですね。

無限の世界と仏の世界、円は真円です。
絶対観の世界です。
一点の欠けもない理想の形です。
それが悟りのイメージなのでしょうね。
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それに比べ、四角い「迷いの窓」が隣にあります。
人間の生涯と、パンフレットに解説されています。

四苦八苦の四角を現しています。
人はこの四角に因って悩まされます。
困るという字も、木の周りに四角で囲われています。
四角四面の人間世界ということでしょうね。

丸と四角の形だでなく、対比することによって、四角には相対観がありますね。
四角は不安定な形です。
丸は安定した形です。
それを一対することによってより、禅という仏の宇宙観を表現されているように感じます。

法華経なら、妙と法という一対の関係でも当てはまります。
陰と陽、二つで一つの関係です。
丸の中にも四角は入ります。
逆に四角の中に丸も入ります。

空(くう)という考えにも通じますね。
そこに有るか無いかでなく、そこに見えるか見えないか、存在はあるはずです。
普遍的なものですからね。

この二つの窓から、景色を覗きます。
この時期はもみぢです。

真っ赤のもみぢも、今赤く見えているだけです。
季節が変われば、青くもなります。
茶色にもなります。
葉もなくなることもあります。

絶対的な物が見える窓ではありません。
普遍なものは、それらから見える自然です。
大袈裟に言えば、仏の宇宙ということになります。
それは普遍的な存在です。

そんな仏縁を頂いていることに感謝しています。
生かされている感じています。
生きているわけではありません。
私も普遍ではありません。

100年後には、絶対この現世には存在しません。
でも、この窓は普遍的なあります。
物質としての窓でなく、この円という普遍の形です。
例え寺が無くなろうと、この空間から見えた自然や宇宙は普遍的な存在です。

この二つの窓も、仮の姿です。
私どもも、仮の姿です。
この世界も、義空(ぎくう)ですからね。
普遍的なものはあります。

それらの境地に達することは、凡夫の私には不可能ですね。
今あるこの窓から、景色を眺めることのみです。
綺麗ですよ。

ありがたい仏縁と出会えたことに、感謝です。

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、扉のない窓の話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。