日本中のいけばなの流派の花が、展示されています。
それも、どこどこの学生さんのと言うのでなく、宗家も含むいけばな世界では、先生と呼ばれるような会員、特別会員など、日本を代表するような華道の先生の作品が一同に見られました。
それも、どこどこの学生さんのと言うのでなく、宗家も含むいけばな世界では、先生と呼ばれるような会員、特別会員など、日本を代表するような華道の先生の作品が一同に見られました。
いけばなと呼ぶより、今回の展示は、芸術やアートと呼ばれる花を用いた表現として、見た方がいいです。
期を照らした作品が多く、少し残念です。
花をモチーフにしたという点では、いけばなでしょうが、私の思う作品とは違います。
少しがっかりしました。
期を照らした作品が多く、少し残念です。
花をモチーフにしたという点では、いけばなでしょうが、私の思う作品とは違います。
少しがっかりしました。
季節季節の四季の中に、花がある。
そんな気持ちに慣れましたね。
5月の端午の節句をイメージした展示です。
この展示は、良かったですね。
日本の伝統的な美の継承です。
兜が何とも言えず、菖蒲の花?と合います。
そんな気持ちに慣れましたね。
5月の端午の節句をイメージした展示です。
この展示は、良かったですね。
日本の伝統的な美の継承です。
兜が何とも言えず、菖蒲の花?と合います。
他に気になった作品に、作品番号129、華道日本未生・平尾星賀斎(特別会員)氏の伝統的な作品に、しばし見入っていました。
竹の花入れが、舟になっています。
気に入ったのは、その姿だけでなく、舟の下です。
碇を思わす2つの台座が、そこにあります。
その上に、舟に見立てた花器があり、その中に花が生けられています。
竹の花入れが、舟になっています。
気に入ったのは、その姿だけでなく、舟の下です。
碇を思わす2つの台座が、そこにあります。
その上に、舟に見立てた花器があり、その中に花が生けられています。
大抵の人は、その下までご覧になっていないと思います。
そうした遊び心が、何とも優雅に感じました。
そうした遊び心が、何とも優雅に感じました。
正面から見ようとしたら、3人のご婦人が談笑されています。
あれ?
正面の品のよいご婦人に、名札が付けられています。
この花を生けられた華道日本未生・平尾星賀斎先生ご本人様でした。
一言二言、言葉をかけて頂きました。
あれ?
正面の品のよいご婦人に、名札が付けられています。
この花を生けられた華道日本未生・平尾星賀斎先生ご本人様でした。
一言二言、言葉をかけて頂きました。
そこに「秘する花」があると感じます。
一瞬一瞬が、違う花の姿や形、その場にあった花、設えにあった花が、空間にあるだけで、
心が落ち着き、豊かになります。
花の妙です。
一瞬一瞬が、違う花の姿や形、その場にあった花、設えにあった花が、空間にあるだけで、
心が落ち着き、豊かになります。
花の妙です。
「花は野にあるやうに」、『南方録』の一節が思い浮かびます。
華道という世界と、茶道の世界が違うのは、当然分かります。
茶室でのいけばなの話ですからね。
でも、野にあるようにと言うのは、まるで野に咲いている自然の風景を想像させる、という意味だと感じています。
華道という世界と、茶道の世界が違うのは、当然分かります。
茶室でのいけばなの話ですからね。
でも、野にあるようにと言うのは、まるで野に咲いている自然の風景を想像させる、という意味だと感じています。
そこに、茶室では、花器に工夫を凝らします。
竹の花入りしかり、籠の花入れしかり、陶器でも同じです。
その花を生けたことによって、主人の数寄者のセンスが見え隠れします。
見えない世界を、見えないからこそ、想像させる空間が、茶室でしょうね。
竹の花入りしかり、籠の花入れしかり、陶器でも同じです。
その花を生けたことによって、主人の数寄者のセンスが見え隠れします。
見えない世界を、見えないからこそ、想像させる空間が、茶室でしょうね。
いけばなも然りだと感じます。
華美な演出は、それなりのイメージが付きます。
しかし、その演出と花の美を比べれば、人が造作した美と花の持つ自然の美、どちらの美が美しいのか、いつも対極しそうです。
華美な演出は、それなりのイメージが付きます。
しかし、その演出と花の美を比べれば、人が造作した美と花の持つ自然の美、どちらの美が美しいのか、いつも対極しそうです。
花は花として美しい。
その花の美しさを、盛り立てる、いれがいけばなのような気がします。
花の美しさより、アートしての演出の美だった作品が、多かったと思います。
何分、素人の感想ですので、ご容赦下さい。
その花の美しさを、盛り立てる、いれがいけばなのような気がします。
花の美しさより、アートしての演出の美だった作品が、多かったと思います。
何分、素人の感想ですので、ご容赦下さい。
禅の言葉・禅語に「莫妄想」(まくもうぞう)と言うのがあります。
妄想すること莫(なか)れと言う意味でしょうね。
相対的な見て、ものごとに執着して、思いわずらうことなかれとも言えます。
妄想すること莫(なか)れと言う意味でしょうね。
相対的な見て、ものごとに執着して、思いわずらうことなかれとも言えます。
結果は、神風によって救われたことはご存知です。
もちろん、神風という台風です。
特別な神通力によって、神風が吹いたのか、偶然の産物かは、分かりません。
もちろん、神風という台風です。
特別な神通力によって、神風が吹いたのか、偶然の産物かは、分かりません。
あれやこれやと妄想しても仕方ないです。
なるようになります。
ただ、余計な作為によって、その被害が甚大になることがあります。
なるようになります。
ただ、余計な作為によって、その被害が甚大になることがあります。
菅前首相、人為的な失策に対する責任があるなら、一命を落として、国民の利益・幸せを追求することが、必要です。
政治家としては、すでに終わっています。
二度と、総理にはなれないです。
なら、私を捨てて、国益に尽くすべきです。
政治家としては、すでに終わっています。
二度と、総理にはなれないです。
なら、私を捨てて、国益に尽くすべきです。
谷垣総裁では、政局を不安定にするだけです。
政治理念が、見えません。
何をしたいのか、何をして国民の利益につなげたいのか、全く見えません。
政治理念が、見えません。
何をしたいのか、何をして国民の利益につなげたいのか、全く見えません。
それに岩手の先生も、汚れた手で、何をすることも出来ないです。
国民を愚弄することかなかれです。
国民を愚弄することかなかれです。
何処か流されないよう、碇を下ろしてほしいです。
国を守る、国民を守るという、秘する花を見つけて欲しいです。
国を守る、国民を守るという、秘する花を見つけて欲しいです。
ありがたいことに、私は仏縁を頂いています。
日々の暮らしの中、ささやかな幸せを見つける術を得たような気がします。
日々の暮らしの中、ささやかな幸せを見つける術を得たような気がします。
嫌なことも、上手く行かないことも、多いです。
それでも、自分の分を見つけて、日々の暮らしを過ごします。
その中にこそ、幸せがあると信じています。
それでも、自分の分を見つけて、日々の暮らしを過ごします。
その中にこそ、幸せがあると信じています。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。
最後まで、碇(怒り)繋がりの話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。