''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

ブリと豆腐と白菜の常夜鍋を食らう より。

朝から昼間も寒かったです。
少し時雨れた雨に混じって、みぞれが降っていたようです。
寒いはずです。

同じみぞれでも、大根を使ったみぞれ鍋なら温まります。
大根と言えば、この時期ブリ大根でしょうね。
それとも、ブリを使った粕汁も美味いでしょう。

魚の臭みが苦手な人は、ブリは嫌いのようです。
ブリ大根もブリが新鮮なら、生姜を効かせて作ったブリ大根の臭み気になりません。

あの琥珀色から飴色になったような大根は、ブリの旨みを凝縮しています。
ブリ大根と言いながら、主役はブリでなく、大根です。
禅的な言い方をすれば、大根も、主人公です。
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先日、いい鹿児島産のいいブリが売っていたので、これをいつもの常夜鍋風にしました。
ブリの旨みは、ポン酢ともよく合います。
ブリしゃぶも、美味いですからね。
豆腐に、ブリの出汁が入って、これまた美味いです。

ブリと言えば、漢字でなら鰤と書きます。
師走と同じく、師が入ります。
師走には、ゲンのいい魚として正月の膳には、欠かせません。

正月の膳に、鰤の照り焼きは、必要です。
ブリは、出世魚ですからね。
地域によっても、その出世魚の名前は違います。
関西なら、ツバス → ハマチ → メジロ → ブリでしょうかね。

私の今月のサブテーマは、「赤穂浪士」です。
播州出身の私としては、毎年12月のテーマにしています。

浅野の旧臣が、吉良家に討ち入り、主人の敵を撃った事件として、現代にも芝居や映画やドラマの題材に取り上げられています。
所謂ヒットするエッセンスが詰まっています。

しかし、歌舞伎になった「忠臣蔵」には、脚色が強く入っています。
映画の赤穂浪士も、脚色が入っています。
思い込みが強いですからね。

大広間の畳替えも、「鮒よ。鮒よ。鮒侍」と言われるような罵倒もありません。
もちろん、田舎侍と中傷されたこともありません。

また、儀式の当日の服装も、長裃か、大紋烏帽子か、嘘を教えることもありません。
幕府の正式な儀式ですから、当然服装は決まっています。

通りすがりの茶坊主に、「浅野様、お召し物が違います」と言われることもありません。
毎年儀式には、参加されているでしょうね。

それら全てを、吉良殿の嫌がられてやいじめと言うのは、おかしいですね。
それを、遺恨と言われても、困ります。
大名として、当然の儀礼の一つです。

キレるポイントがズレています。
カンニング竹山さんじゃないんだから、「ここで、キレて下さい」と無茶ぶりのカンペは、出ていませんよ。

ですから、松の廊下事件は、不思議な事件なんです。
その原因は、その日の天気が悪かったからです。
内匠頭殿の持病「痞」のせいです。
きっと、発作的な精神病です。
天候の悪い時に、発作は起こりやすいですからね。

この時代、武士と言えど、出世には限界があります。
日本の歴史の中で、もっとも出世したのは、太閤秀吉でしょうね。
百姓から、関白太政大臣になったのは、あとにも先にも秀吉公だけです。

江戸時代には、戦乱の世から平和な世になり、武士も出世出来なくなりました。
そういう中、太平の世にあって、出世した方がいます。
この元禄の時代にです。

柳沢吉保殿です。
側用人でありながら、老中、大老並の処遇です。
松平の姓を名乗ることを許された徳川の一門扱いです。
破格の出世したことになります。

もともとは、父は、館林藩の勘定頭・柳沢安忠、160石の家柄です。
ごく普通の武士です。
160石なら、ひとかどの武士です。

100石以上のなら、外出も共を連れて外出します。
庶民が行くような場所にも、気さくに立ち寄ることも出来ません。

しかし、1000石以上の大身旗本から見れば、下郎も同じです。
ましてや館林藩の陪臣なら、おな更です。
直参旗本は、将軍の直属の家来です。

その陪臣の160石の武士が、あれよあれよと出世して、元禄7年(1694年)には、7万2千石川越城主として老中格、同14年には、松平の姓を与えられ、綱吉から「吉」の片諱を与えられ「吉保」となり、一門大名に準じた。
宝永元年(1704年)には、甲府城主15万石の大大名になってしまった。
挙句には、宝永3年(1706年)1月11日には大老格に上り詰めたことになります。

因みに官位は、従四位下・左近衛権少将・出羽守(でわのかみ)、後に美濃守(みののかみ)、折しも高家筆頭吉良上野介の方が、1段上の従四位上・左近衛権少将で同じ官位でした。

そんな吉良は、飛ぶ鳥の勢いの柳沢吉保に、媚びた訳です。
あの清和源氏の血を引く高家筆頭の吉良上野介が、もともと160石の家柄の吉保に、近づいた訳です。
吉保としても、悪い気分はしなかったと思います。

上り詰めた吉保を侮蔑した視線で見るものも多かったでしよう。
もともと、
160石の陪臣上がりですからね。

将軍に言い寄るのが上手かっただけと、思われています。
しかし、気難しい主人を、上手に操作して、気働きをした功績は、偉大です。
50回以上、将軍綱吉が柳沢邸に下向しています。
仮にも、将軍が家臣の家に行くことはなかった時代です。
如何に吉保のことを信頼していたか、判ります。

しかし、政治的なことに、その気遣いは向けられません。
悪法「生類哀みの令」にも、反対するところが、それは良いと賛同したり、小判の質を落として、貨幣価値を下落させ、インフレを起こし、日本経済を混乱させた罪は、大きいです。
庶民の生活は、困窮しています。

一部の商人だけが、大金を稼げる状態です。
そして、賄賂がすべてです。
将軍を50回も自宅に招くだけでなく、趣向を凝らした御成御殿や、饗応接待には、多額の金銭が必要になります。

大名と言えども、そんな経済の余裕はありません。
すべて、賄賂により手にした金銭に他なりません。
社会が破綻してる中でも、武士の本道、忠義の道です。
武士も庶民も、この偉大な功績に、やんやの喝采です。

♪いつものように幕が開き~
こちらは、ちあきなおみさんの『喝采』違いです。

この出世も、将軍綱吉の黒い縁どりの知らせを境に、政の世界から身を引きます。
ただ、出世の恩賞は、そのまま息子・吉里に大和郡山15万石として引き継がれました。
一説には、綱吉存命中に、甲府100万石の確約の取り付けたという話も、誠しなやかにあります。

綱吉公がそのまま存命なら、現実になっていたかも知れません。
歴史に、「仮に」や「もし」はタブーですが、そうなっていたのかも知れません。
何がしたかったのか、よくわからない人物でもあります。
室の曽雌家の菩提寺である龍興寺の竺道祖梵に禅を学んでいると聞きますが、それがどう生きる上で役立ったのか、これまた不明です。

出世に縁のない私としては、名前だけ3回も出世魚のように戸籍を泳いでいます。
珍しいのは、姓が変わったわけでなく、下の名前を3回変更しています。
家庭裁判手続きをした上で、今の名前で戸籍の上で、3回目の出世した名前です。
名前だけの出世です。

日々の暮らしの中で、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁に感謝しています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますよう、祈るばかりです。

最後まで、キトキトに脂乗った話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。