''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

左大文字の山に「大」の字が見えます より。

今朝は、この冬一番の寒さでした。
スクーターでの移動に、手が凍えそうになりました。
風が、冷たいと言うより、痛い感じでした。

昨日に続いて、出雲路橋付近から見た賀茂川の風景です。
市民の憩いの賀茂川沿いです。
出雲路橋の向こうは、高級住宅街です。

下着メーカーWのT氏など、巨大なお屋敷が賀茂川沿いに連なります。
休日の散策には、持って来いです。
賀茂川から、出町柳まで出れば、三条にも四条にも、足を伸ばせば七条、十条辺りまで遊歩道が続きます。(一部開通していませんので、対岸への歩道も含めです)
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出雲路橋の辺りから、銀閣寺裏の大文字山が、よく見えます。
五山の送り火には、ビュースポットになるでしょうね。
ただ、妙法の山も見たいなら、出町柳辺りが人気のスポットです。

私の今月のサブテーマは、「赤穂浪士」です。
大の字と言えば、言わずと知れた大石を思い出します。
それなら、簡単すぎます。
ここは、義士でなく、不義士と言えば、その代表格は、家老の大野九郎兵衛知房(おおのくろべえともふさ)です。
石高650石の高禄です。

分配金の配分では大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、大野は石高に応じて配分すべきと主張している。結局、大石の意見どおりに配分され、大野は藩内で孤立を深めたとも聞きます。(ウィキペディア参照)

平時にあっては、有能な官吏です。
ただ、当たり障りのない事務をしていただけです。
事が起これば、私利私欲を走る。
そんな人物だったようです。

家財を置いたまま船で逐電し、よほど慌てていたのか、幼い孫娘を屋敷に置いたままにした上、女駕籠にて逃げたと、堀部武庸筆記に記されているようです。

とりあえず評判は悪いです。
650石と言う高禄と、家老という上席の役目を果たしていないのが、一番の原因です。
大石内蔵助と比べようもない人物としか言えません。

元禄16年(1703年)仁和寺辺で「伴閑精」という偽名で一人暮らしていたようです。
同じ年の4月6日、衰死の為、黒谷に葬られたとの記載もあるようです。

判断が悪かったとしか言えません。
慌てる乞食は、貰いが少ないと言います。

不義の代名詞として、仮名手本忠臣蔵にも、五段目・定九郎として出て来ます。
後世に恥の上塗りとして、芝居でも演じられるのは、些かかわいそうな気もします。

それも、片や吉良家討ち入りの成功していますから、討ち入りに参加していないと言うだけで、身の置き場がなかったでし.ょうね。
多くの人の見えない犠牲が、ここかしこにあります。

刃傷事件がなければ、最後まで有能な官吏として、一生を終えたはずです。
それもこれも、内匠頭の責任です。
如何にとやせん。

そんな事を考えながら、少し肌寒い賀茂川沿いで、暫し休息しておりました。
暫し、優雅な時間です。
いろいろと忙しいです。
貧乏人は、暇はないと言いますが、本当にですね。
じっと手を見ます。

それでも、こうしてブログを書かせてもらえるのは、ありがたいです。
日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁のお蔭です。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、大の字が見える話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。