''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

サッポロ一番塩らーめんで作った野菜たっぷりタンメン風 より。

朝からいい日差しが、居間に入って来ます。
前日は、あちらこちらで、大雪でした。
東京も大変積もったようですね。
東京のネットの妹も、難渋していることでしょう。

寒いと言えば、やはり温かいものがご馳走です。
膝が痛いので、家での食事が中心です。
おでんを作ったりすれば、何度か同じ食事でも、苦にはなりません。
安上がりな男です。

それでも、昼ごはんはお手軽モードです。
やはり、インスタント麺になります。
先日作ったのは、サッポロ一番塩らーめんで作った野菜たっぷりタンメン風らーめんです。

サンヨー食品サッポロ一番シリーズの塩らーめんと言えば、日本のインスタント麺の中でも1971年9月に発売されたという古参で、5本に入る超ロングヒットーの位置にあります。
味噌と言い、塩と言い、根強い人気です。

そのまま食べて美味いですが、野菜を入れると美味さが深まります。
野菜のコクが、スープと相乗して、美味さもアップします。
特に、塩らーめんは、野菜をいっぱい入れると、タンメン風になります。
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「おまえに食わせるタンメンはねぇ!」そんなこと言っていた社会問題なった芸人さんがいましたね。
あの時の言い訳は、苦しいと思いますよ。
散々、数百万円を使った遊興三昧したエピソードがありましたからね。

どうしても、テレビに出ていると、アラを探されることになります。
でも、あまりにもあまりにものことに、国会議員に指摘されたのは、遺憾です。
やはり、やり過ぎです。
あの事件以来、テレビを見ても、全く笑えなくなりました。

笑いとは、どこか違うように思えます。
落語で言うなら、古典落語の中に、笑いの本質があるように思えます。
古典と言えば、長い間に培われた笑いのエッセンスがあります。
古典芸能は、品がいいはずです。
幾人もの芸人さんが長い間演じて来られて、その間に無駄をそぎ落とし、洗練された芸になります。

同じ芸人さんでもそうですね。
今は亡き吉朝さんの芸は、若い頃と円熟味が出て来た頃とは、全く落語の主人公の演出が変わっています。
落語の「時うどん」がそうです。
落語の「ふぐ鍋」がそうです。

円熟味が増すと、笑いも派手さがなくなり、そのしぐさで勝手に笑いが込み上げてきます。
吉朝さんが、演じているのでなく、その落語の中の主人公に見えて来るから、これが不思議です。
若い時、笑わそうとします。
それが、邪魔になって、落語の話に集中出来ません。

そう古典落語の定番「淀五郎」の淀さんが、そうです。
演じているのは、五万三千石のお大名です。
四段目の切腹のシーンに来て、客にここぞとばかり、自分を売り込んでもダメですね。
塩冶判官が、浮いてしまいます。
幾ら呼んでも、大星由良助役の團蔵は、やって来ません。

ここで、やけになっていっそうの事、本当に舞台で死んでしまおうと、世話になった仲蔵に挨拶にやって来ます。
話を聞いた上で、仲蔵に諭された知恵を貰います。
死を覚悟した淀五郎の切迫した思いと、それを諭す仲蔵の二人の役の使い分けが、難しいです。
若い方がやっても、この仲蔵の奥の深い懐の広さは出ません。
名人上手と言われたように、大看板がやって初めて、成立する落語です。

笑わそうとするところはありません。
でも、おのずと笑いが込み上げてきます。
必死になって、教えを請う淀五郎に、師匠の市川團蔵は言います。
家来が主人に教えることはないとね。

仲蔵の知恵を得て、徹夜で稽古して舞台に臨みます。
その甲斐あって、團蔵に「大したもんだ。富士のお山は、一晩で出来たっていうが、あの野郎、一晩で判官を作りやがった」と、これでは行ってやらねばならないと、側に寄ってやり理ます。

そして、淀五郎の「うーん、待ちかねた」のさげに笑いが込み上げてきます。
この一連の落語の中で、淀五郎の気持ちが、よく分かったから、最後の笑いも生きてきます。

舞台と観客が、この話の中で、一体と化します。
それが、笑いの芸だと思います。
もしかして、笑わしていると思っている芸人さんが多いです。
藤山寛美さんの言うように、笑ってもらっていると感じるようにするには、芸の中にお客を引き込むことが肝要です。

ぺらぺらの笑いではない世界が、そこにあるわけです。
ですから、その練り抜かれたネタである原作脚本の古典であれば、その世界に引きづり込みやすいです。

役者の世界でも同じですね。
サッポロ一番みそラーメンのテレビCMと言えば、長い間名優・藤岡琢也さんでしたね。
郷里播州の先人です。
その先人を超越する人間国宝桂米朝も、播州の出身です。

その米朝さんが、藤岡琢也さんに仕事でお会いになった時、「おまはん、覚えてはるか?」と、小学校の遠足の時に、藤岡琢也さんの手を繋いで案内したことがあったことは、有名なエピソードですね。

これを聞いて、くすっと笑いが込み上げてきました。
米朝さんの円熟期の落語は、いいですね。
すでに、高齢のため、もう落語をするようなことはないですからね。
ユーチューブで、楽しませてもらうことがあります。

私の好きな話の中に、落語「世帯念仏」があります。
最初のつかみに、門跡さんと呼ばれるような高僧が「南無阿弥陀仏」を唱えるシーンがあります。
この「南無阿弥陀仏」が凄いです。
それに、船場の大きな仏間での、「南無阿弥陀仏」も一万円札が降って来そうなほど、ありがたいです。

実は、米朝さんは神社の家の出です。
神主さんの資格も持っているやに聞きます。
その神主さんが唱える「南無阿弥陀仏」に聞き惚れます。
それに対して、長屋の信心もない親父の「南無阿弥陀仏」の対比が、笑いが込み上げてきます。

宗教の本質を垣間見る落語です。
それを神主さんの米朝さんが、演じられて、その本質を問います。
信じる者は、救われますよ。

あの「南無阿弥陀仏」は何度練習しても、あんなに品格のある「南無阿弥陀仏」になりません。
♪ん~な~ぁ~~ぁ~~
どこまで行っても、「なぁ~」で、最後の弥陀仏に行くなら、夜が明けそうというのが、笑えます。

落語でも、ありがたい仏縁に喜んでいます。

日々の暮らしに、ささやかな幸せがあります。
ありがたいと感謝して暮させてもらっています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、あっさり薄い塩味のの話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。