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池田 長頼(いけだ ながより) 長吉系池田家。
生母は恒興の正室・善応院。豊臣秀吉の猶子(養子)羽柴藤三郎と称していた。
後に因幡国鳥取藩6万石初代藩主。この時池田復姓。
池田長吉の四男として誕生。
慶長6年(1601年)、徳川秀忠に仕え、御書院番頭となり知行3000石を与えられる。
寛永9年(1632年)4月4日、兄長幸の病が重く、親族が集まり後嗣について評議した。嫡男長常は病弱のため、次男長純(長教)と分割相続する案に長頼は1人反対し、評議の場から外された。
怒った長頼は、長純とその親族の脇坂安信、脇坂安経に斬りかかり、安経を殺害する。同月6日に責めを負って切腹した。翌日、安信も改易された。
刃傷の経緯が事情によって、相違しています。
脇坂安信が不満があって、事件が起きたと言う記載も見られる。
脇坂安信 参照。