''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

吉岡憲法の「よ」

 
剣術吉岡流の歴代当主が世襲した名。初代は直元。染織の技術も相伝し、4代目憲法(直綱)が憲法染(けんぼうぞめ)を考案したとされる。

デジタル大辞泉の解説

 

 

戦国時代の剣術家。
吉岡流の流派鬼一法眼京八流とも,祇園藤次に小太刀(こだち)をまなんだともいわれ,兵法師範として室町幕府につかえたという。京都四条の染物師で,憲法染,吉岡染とよばれる黒茶染を考案したとするもあるが史実は不明。通称仁右衛門

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室町末期の剣術家。吉岡流の祖。京都四条の染物商だったが、祇園藤次に剣を学び、一流を興した。小太刀を用いる。室町幕府兵法所師範。生没年未詳。

 

生没年不詳。戦国時代末期、京都の兵法者。吉岡流の祖。通称仁右衛門(にえもん)、名は直元(なおもと)。吉岡家伝の兵法は鬼一法眼(きいちほうげん)の京八(きょうはち)流の末といい、また、祇園(ぎおん)の藤次(とうじ)という者から小太刀(こだち)の妙術を得たという。天文(てんぶん)年間(1532~55)直元は足利(あしかが)12代将軍義晴(よしはる)に仕えて軍功を現し、その弟直光(なおみつ)のとき初めて将軍家の兵法所を預り、その子又三郎直賢(なおかた)は将軍義昭(よしあき)の兵法師範を勤めて、名声を高めた。直賢に3子あり、長子を源左衛門直綱(なおつな)、次子を又市直重(なおしげ)、三子を清次郎重賢(しげかた)といったが、宮本武蔵(むさし)と数度の勝負を争った「天下の兵法者」は、この直綱兄弟のこととみられる。1614年(慶長19)大坂冬の陣徳川家康は、所司代を通じて、吉岡に大坂側に味方しないように釘(くぎ)を刺しておいたが、それにもかかわらず、一門をあげて豊臣(とよとみ)方に従軍した。そして戦後、その敗軍を恥じて兵法を捨て、西洞院四条(にしのとういんしじょう)に潜居し、門人の李三官(りさんかん)から伝えられた黒茶染めの法をもって染物業に転向したという。[渡邉一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

 

室町末期の吉岡流剣術の創始者。名は直元。京都今出川に兵法所と呼ばれる道場を持ち、多くの門弟を養った。憲法直元、その子直光、孫直賢は、足利将軍の剣術師範をつとめた。また、直賢は宮本武蔵の父新免無二斎と、その子直綱・直重兄弟は武蔵と試合をした。

 

 

浪曲 京山幸枝若「米屋剣法」より。 今日は大作ですよ。