''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

嫁からの少し早目のクリスマスプレゼント より。

この年になっても、クリスマスプレゼントは嬉しいモノです。
今年、親子三人で京都国立博物館に行きました。

「特別展 京のかたな 匠のわざと雅のこころ」でしたね。 
今回の目玉の展示は、三条宗近の「三日月宗近」です。

天下五剣に数えられる名刀中の名刀です。
こりゃ、見に行かずに、刀好きと言えません。

1時間以上並んで、3時間近く刀を鑑賞すれば、クタクタになります。
しかし、図録も多くの人に阻まれて、なかなか手にすることも出来なかったです。
欲しかったですが、子供も一緒ですから、諦めました。
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その図録が、届きました。
嫁が、クリスマスプレゼントにして、取り寄せてくれました。

ありがたいことです。
名刀の記憶が、図録の解説でより鮮明です。

刀の写真では分からない事も多いです。
現物を見てから、図録を見れば、いろいろと思いだされます。
いい手引きになりました。

デスクのまわりには、刀剣の本も置いています。
史書も、鬼平犯科帳の本も、梵字の本も、禅語の本も配置しています。
手に届く所に置かないと、すぐに見られません。

禅の言葉、禅語の中に、「寳剣在手裏」(寳剣、手裏に在り)があります。
茶室に不似合いの言葉のように感じますが、そうではありません。
老若男女、貴賎、貧富、国籍に関係なく、万人が備わっている仏性です。

寳剣とは、まさに金剛王寳剣の事、般若の智剣、吹毛(すいもう)の智慧文殊菩薩智慧と言う事になりようです。
人には、この尊い寳剣が自分の中にあるのに、それを知らず、それを知っていたも、それがどこにあるかを知らずに、生きている訳と言うのです。

この寳剣をみがき、活人剣として生かすのも必要かもしれません。
あの有名な柳生但馬守宗矩の剣かもしれませんね。
政治の繋がれば、知性も治世に代わります。

赤穂浪士の中でも、これが関係します。
泉岳寺の酬山住職が、浅野内匠頭長矩に、「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」という戒名を付けています。
文殊智慧があるなら、家臣を思えば、松の廊下の刃傷には、ならなかったはずです。
どうも、「吹毛」の意味する所が分かりませんね。

吹いて髪の毛が、ふっと飛ぶなら、それは漫才師の海原はるか・かなたさんの漫才の中です。
晩年になって、これほど売れた芸人さんも、珍しいです。
あのギャクがなくても、漫才は面白いのに、この髪の毛のふっと吹かれるのは、大笑いします。

最初は、髪の毛の薄いのを気にして居たと聞きますが、その弱点がとりわけ最強の武器になったと言えば、これこそ、文殊菩薩智慧ですね。
逆転の発想かもしれませんが、そうした方便も、やはり、嘘から出た真になるのは、意味する所が深いです。

刀剣は、短なる人を殺戮する武器ではありません。
戦時にあっては、武器になっても、泰平の世に有っては、刀を抜けば、家は断絶、身は切腹と言う矛盾の中に、武士道とは何なのか、考える所です。
剣は、剣として使うより、活人剣として、人の暮らしの知恵に使いたいです。
ありがたいことです。

日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。