天下五剣に数えられる名刀中の名刀です。
こりゃ、見に行かずに、刀好きと言えません。
こりゃ、見に行かずに、刀好きと言えません。
1時間以上並んで、3時間近く刀を鑑賞すれば、クタクタになります。
しかし、図録も多くの人に阻まれて、なかなか手にすることも出来なかったです。
欲しかったですが、子供も一緒ですから、諦めました。
その図録が、届きました。
嫁が、クリスマスプレゼントにして、取り寄せてくれました。
しかし、図録も多くの人に阻まれて、なかなか手にすることも出来なかったです。
欲しかったですが、子供も一緒ですから、諦めました。
その図録が、届きました。
嫁が、クリスマスプレゼントにして、取り寄せてくれました。
ありがたいことです。
名刀の記憶が、図録の解説でより鮮明です。
名刀の記憶が、図録の解説でより鮮明です。
刀の写真では分からない事も多いです。
現物を見てから、図録を見れば、いろいろと思いだされます。
いい手引きになりました。
現物を見てから、図録を見れば、いろいろと思いだされます。
いい手引きになりました。
禅の言葉、禅語の中に、「寳剣在手裏」(寳剣、手裏に在り)があります。
茶室に不似合いの言葉のように感じますが、そうではありません。
老若男女、貴賎、貧富、国籍に関係なく、万人が備わっている仏性です。
茶室に不似合いの言葉のように感じますが、そうではありません。
老若男女、貴賎、貧富、国籍に関係なく、万人が備わっている仏性です。
寳剣とは、まさに金剛王寳剣の事、般若の智剣、吹毛(すいもう)の智慧、文殊菩薩の智慧と言う事になりようです。
人には、この尊い寳剣が自分の中にあるのに、それを知らず、それを知っていたも、それがどこにあるかを知らずに、生きている訳と言うのです。
人には、この尊い寳剣が自分の中にあるのに、それを知らず、それを知っていたも、それがどこにあるかを知らずに、生きている訳と言うのです。
赤穂浪士の中でも、これが関係します。
泉岳寺の酬山住職が、浅野内匠頭長矩に、「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」という戒名を付けています。
文殊の智慧があるなら、家臣を思えば、松の廊下の刃傷には、ならなかったはずです。
どうも、「吹毛」の意味する所が分かりませんね。
泉岳寺の酬山住職が、浅野内匠頭長矩に、「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」という戒名を付けています。
文殊の智慧があるなら、家臣を思えば、松の廊下の刃傷には、ならなかったはずです。
どうも、「吹毛」の意味する所が分かりませんね。
吹いて髪の毛が、ふっと飛ぶなら、それは漫才師の海原はるか・かなたさんの漫才の中です。
晩年になって、これほど売れた芸人さんも、珍しいです。
あのギャクがなくても、漫才は面白いのに、この髪の毛のふっと吹かれるのは、大笑いします。
晩年になって、これほど売れた芸人さんも、珍しいです。
あのギャクがなくても、漫才は面白いのに、この髪の毛のふっと吹かれるのは、大笑いします。
最初は、髪の毛の薄いのを気にして居たと聞きますが、その弱点がとりわけ最強の武器になったと言えば、これこそ、文殊菩薩の智慧ですね。
逆転の発想かもしれませんが、そうした方便も、やはり、嘘から出た真になるのは、意味する所が深いです。
逆転の発想かもしれませんが、そうした方便も、やはり、嘘から出た真になるのは、意味する所が深いです。
刀剣は、短なる人を殺戮する武器ではありません。
戦時にあっては、武器になっても、泰平の世に有っては、刀を抜けば、家は断絶、身は切腹と言う矛盾の中に、武士道とは何なのか、考える所です。
剣は、剣として使うより、活人剣として、人の暮らしの知恵に使いたいです。
ありがたいことです。
戦時にあっては、武器になっても、泰平の世に有っては、刀を抜けば、家は断絶、身は切腹と言う矛盾の中に、武士道とは何なのか、考える所です。
剣は、剣として使うより、活人剣として、人の暮らしの知恵に使いたいです。
ありがたいことです。