''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

チキータバナナとフアナのお人形


OP「草原のマルコ」(歌:大杉久美子、作詞:深沢一夫、作曲・編曲:坂田晃一

昨日のブログで紹介したチキータバナナ何か引っかかっているんですね。味でないですよ。ソンナさん風に言うなら、チキータと言えば、「チキティータ」です。

フアナのお人形の「チキティータ」ですよ。フアナは、コルドバのサンイシドロ地区に住むパブロの妹のフアナです。ご存知ですよね。

世界名作劇場と言うか、カルピス劇場と言うかフジテレビの日曜日にやっていたアニメ枠の番組、『母をたずねて三千里』 (Yahoo!動画もやっています)の「43話 この街のどこかに」に出てきます。

主人公マルコが、貧しいサンイシドロ地区に住むパプロの家で世話になっていました。食べ終えた後のトウロモコシの芯で作ったお人形が「チキティータ」です。それをマルコはゴミだと思って捨ててしまいす。このトウモロコシの芯に目と口を書いてあり、ピンクの布切れを紐で巻いた人形です。これにフアナは「チキティータ」と名づけてお気に入りにしています。

ちなみにチキティータとはスペイン語で「お嬢ちゃんとか、小さな女の子」という意味だそうです。意図して名づけられたかは不明です。ちなみ続きで、パブロのおじいさんは、ホルヘと言う名前です。マニアックです。

このフアナが肺炎を起こしそうになり危篤状態になります。マルコは医者に見てもらうように勧めるのですが、貧しい地区に来る医者はいません。何軒も医者をはしごします。
言っていたように貧しいからという理由で見て診察さえしてもらいません。

コルドバの地に母がいると情報を元にこの地にやって来ますが、すでに転居していました。しかし、母の主人 ラモン・メキーネスをいとこのビクトル・メキーネスと間違えて家を訪ねます。母の居所は分かりました。ずっと北のツクマンと言う地にいることが分かったのです。

このとき無一文であったマルコにビクトル・メキーネスはツクマンの汽車賃を用立てて上げます。アニメの上では今の日本円で言うなら3~5万円といった風に、私には見受けられます。その金を懐にしていました。

パブロの家に帰って来て、危篤のフナアです。

先ほどのように医者をたらいまわしされた挙句、貧しさゆえに往診を断られます。

病院の受付のお姉さんが言います。

「今日を予約でいっぱいなの」

マルコは言います。

「その後でも良いです。待ってます。」

お姉さんは無言で無視し続けます。
おもむろに預かったツクマンの汽車賃をすべて差し出して

「これでフアナに出来ることを・・」

「もう一度先生に聞いてきます」

と席を外す受付のお姉さんです。

子供ごころに、最後はお金か?と痛烈に感じました。

このことにより、医者に診てもらえてフアナは命を取り留めます。

感動の話です。当時はマンガと読んでました。まだアニメという言葉は定着していませんでした。子供用のマンガの話ではありません。

人としてのヒューマニズムの話です。ドラマにしても通用する話です。でもアニメの方が生々しくなくて、より意図したところが子供心にも通じました。

30年以上前の話です。今見ても色あせません。絵がきれいです。演出がしっかり効いています。子供用の作られた話ではなく、大人にも通じる名作です。
それもそのはずです。

監督(演出)/ 絵コンテ :高畑勲
場面設定・レイアウト:宮崎駿
と言った現在アニメの巨匠たちです。

宮崎監督の「崖の上のポニョ」が今上映されていますが、ずっと昔から最品の質の高さはありました。もっと直接的で分かり易いなメッセージを伝えていました。
(文字の表記等は、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』を参照しました)

昔のアニメの話でなく、現在社会の問題です。
当時はこんな日本になるとは思っていませんでした。
老人になればバスも無料、年金もたっぷりもらえて、老人は医療費も無料でした。世界高水準の社会福祉の日本でした。

医者の診てもらえずにたらいまわしにされることがあるなんて考えられない時代でした。

考えされられる問題です。

人が健康で人らしく生きる。当然の事が出来ない時代になっています。

人が人らしい生活を何とかするのは、誰に責任があるのかは明らかです。
心穏やかに過ごせるように努めます。

とりあえず、今日を精一杯生きれることに感謝です。元気で過ごせることに感謝が必要です。

すこしノスタルジックな話になりましたが、楽しんで頂ければ幸いです。
最後まで読んで下さった方本当にありがとさんです。