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池田 光仲(いけだ みつなか)
寛永7年(1630年)6月18日、岡山藩主・池田忠雄の長男として生まれる。
寛永9年(1632年)父・忠雄が死去し、わずか3歳で家督を継ぐこととなった。幼少のため山陽道の要所備前岡山を治め難いとされたが、徳川家康の外曾孫ということもあり改易とはならず、光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石に、従兄で鳥取藩主となっていた池田光政が備前岡山藩31万5,000石へ国替えとなった。この際に、叔父の池田輝澄(播磨国山崎藩主)、輝興(播磨国赤穂藩主)、さらに光政が後見人として充てられた。幼少のために江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられた。
寛永15年(1638年)、江戸城にて第3代将軍・徳川家光の前で元服し、偏諱を受け光仲と名乗った。寛永17年(1640年)、山崎藩でお家騒動(池田騒動)が勃発し、山崎池田家は改易となり、光仲の後見人となっていた叔父・輝澄が領内鹿野に1万石の堪忍料にて預かりとなった。
正保2年(1645年)幕府の斡旋で紀州藩主・徳川頼宣の長女・茶々姫と結婚した。以後、鳥取池田家と紀州徳川家との姻戚関係が継続した。
承応元年(1652年)には藩の実力者で米子城代・筆頭家老の荒尾成利に、責問十余条を突き付けて罷免にし、藩主の権力を強化した。
貞享2年(1685年)長男・綱清に家督を譲り隠居した。しかしなお藩政への情熱は衰えず、綱清を後見した。
次男・壱岐守仲澄に新田2万5,000石(のち3万石)を分与し、鹿奴藩(鳥取東館新田藩)が成立。
元禄6年(1693年)7月7日、脳卒中のため鳥取城にて死去した。享年64(満63歳没)。