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浅野 長恒 (あさの ながつね)
万治元年(1658年) - 享保17年9月7日(1732年10月25日)
通称は長三郎(ちょうさぶろう)、のち隼人(はやと)。
母方の長直の養子に入って浅野長三郎と改名。
寛文11年(1671年)3月5日には赤穂藩領から新田3000石を分知されて寄合旗本に列した。元禄6年(1693年)5月10日、幕府御使番に就任し、11月17日には目付にかわって日光山へ派遣された。また12月18日には布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄7年(1694年)に目付代として大坂にあった時、大和国宇陀松山藩主織田信武が発狂して自殺するという事件が起こったが、11月7日に幕府からその調査を命じられて宇陀松山藩へ赴いた。元禄12年(1699年)2月28日には山田奉行に就任。元禄13年(1700年)12月21日には従五位下・美濃守に叙任した。
元禄14年(1701年)3月14日、宗家の当主浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ罪に連座して出仕禁止となり、5月6日出仕は許されるも山田奉行の職は解任されて、また将軍への拝謁も禁止されたままだったが、6月25日になって拝謁を許された。
元禄15年(1702年)12月15日、又従兄弟にあたる大石良雄らが吉良義央を討ち取った事件(赤穂事件)があったため、再び出仕を止められたが、元禄16年(1703年)3月8日に許された。
正徳元年(1711年)5月1日堺奉行に就任。享保6年(1721年)10月17日紀伊国和歌浦東照宮の御宮および其余の神社に奉幣の御使をつとめた。後この功績で時服三領を賜った。享保14年(1729年)7月25日高齢を理由に職を辞し、享保17年(1732年)9月7日に死去。享年75歳。
なお妻は、赤穂城収城を命じられた木下公定(実父は遠山友貞)の養女であった。