''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

御典医・栗崎 道有(くりさき どうう)

 
 
 
 
 
御典医・栗崎 道有(くりさき どうう)

寛文4年(1664年) - 享保11年10月20日(1726年11月13日)

江戸時代中期の蘭学医、御典医。諱は正羽(まさゆき)。号は道仙。道有は栗崎家世襲の号である。

その意味は「露」を意味するオランダ語dauw(英dew)に由来し、時に道宇とも書かれるとある。

 

外科医・栗崎正家の子として誕生。寛文4年(1664年)に長崎で生まれ。ただし、生年については万治3年(1660年)、寛文元年(1661年)とする説もあり。 

祖父・栗崎道喜から続く南蛮流の外科医術を取得し、その後オランダ流の外科を習得しする。

元禄4年(1691年)、江戸へ出て江戸幕府の官医となった。

元禄14年(1701年)、赤穂藩主・浅野長矩江戸城内で吉良義央を斬りつけた際には、義央の治療を行い、また元禄15年(1702年)に義央が赤穂浪士に斬られた際には、首と胴体の縫合を行ったとされる。 

 

享保10年(1725年)、毛利師就水野忠恒に斬りつけられた事件の際にも、師就の治療に当たったとある。 

享保11年(1726年)、死去。

墓は、吉良義央と同じ萬昌院功運寺にある

 

江戸城・松之廊下のて浅野長矩の刃傷事件にあって、上野介の治療にあたって書き残した『栗崎道有日記』がある。

この日、一旦江戸城での仕事を下がり、神田明神下の患者・酒屋伊勢屋半七の所に往診に出かけていた。

そこに、江戸城で不慮の事故があり、吉良上野介の治療に参内するように、老中の知らせが来たとある。

 

詳しくは、当日の当番の本道方(内科)は、津軽意三、外科は、坂本養慶であり、先ず血止の治療せよとの大目付衆より指図がより、薬を用い治療しましたが、上野介の出血も止まらず、段々気力が失せて来た。

そこで、老中の指図より、大目付の仙石伯耆守が、高家の畠山下総守より、御典医・栗崎道有を江戸城で出仕させて、治療するようにせよの命により、畠山下総守より目付衆が、栗崎宅へその手紙を持ってやって来たと旨の記録があるようだ。

 

知らせを受けて治療に当たると、額の傷は深く長さ3寸(約10センチ)程あったとあれ、6針縫うとある。(当初から、なかなか止血出来なかったようである)

多量の出血があり、止血の応急の治療を施した。

背中の傷は、5、6寸(約20センチ)ほどあったが、傷は浅く出血の量も少なく、3針縫う応急の治療をした。

目付衆への報告にも、応急の処置であり、続いて治療の必要があると、報告している。

「引き続いて治療をするように」と命が下ったので、上野介が寝ている部屋に行って、湯漬けにに塩を振ったものを差出し、それを食したので、徐々に回復して元気になったと書き記している。

上野介は、朝早くから出仕して、食事もしておらない有様であったのも、湯漬けを食して元気になったようである。

 

道有の助言により、公儀は上野介の様態を重体と公表しており、引き続いて吉良家に治療に通っていたようである。

 

また、もう一方の当事者・浅野長矩には「つかえ」の持病があったが、精神障害ではなく、道有の診断でも「乱気にあらず」と断言しており、精神障害ではないとされている。

持病の「つかえ」とは、「胸のつかえ」と言うように、心的ストレスから胸のあたりが苦しくなる発作的な病かもしれない。

どちらにしても、当時から精神障害ではないと、判断されていたようである。

 

(ウィキペディアWikipedia)』、「「忠臣蔵」の謎学」(中島康夫監修)参照)