''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

梶川与惣兵衛

 
 
 
 
 
 
梶川与惣兵衛頼照 (かじかわ よそべえ よりてる)
 
 正保4年(1647年)~享保8年8月8日(1723年9月7日
 

旗本土岐頼泰(切米600俵、土岐頼次の三男)の次男として生まれる。

母は旗本山岡伝右衛門景重(400石)の娘。

戦国時代の美濃国守護大名の土岐 頼芸の子孫、後に重臣斎藤道三 (内蔵助の祖先)に追放される。

 

明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁。

寛文3年(1663年)11月19日から御書院番として出仕。

寛文4年(1664年)8月11日、姉が嫁いでいた梶川分重が嗣子なく没したため、その養子となって家督を継いだ。

元禄9年(1696年)4月25日、本所奉行に就任。

元禄10年(1697年)正月22日、御腰物奉行頭。

同年12月18日、布衣(六位相当)の着用を許される。

元禄13年(1700年)7月18日、大奥御台所付き 留守居番「御台所付御広敷番」に就任

宝永4年(1707年)正月15日、西城持筒頭に就任。

正徳元年(1711年)4月1日、槍奉行に就任。

享保4年(1719年)2月7日、職を辞し寄合に列する。

享保5年(1720年)5月23日、隠居して養老料として切米300俵を受けている。

享保8年(1723年)8月8日に死去。享年77。   

 

事件当時、「御台所付御広敷番(みだいどころつきおひろしきばん)」と言う役職であって、将軍の奥方や母・桂昌院に使える役職で、特に桂昌院の覚えめでたく、相当な権力があったとされている。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之廊下で、浅野長矩吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、長矩を取り押さえた(取り押さえたのは高家の京極高規との説もある)。 

この功績により、3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となった。 

「抱き止めた片手は二百五十石、両手で五百石」と江戸っ子に洒落歌を作って揶揄したとされる。「情けない武士の」代名詞として世間から見られ、辛い晩年を送ったと言われている。

 

これで外出時には、1,000石を超えたので無役でも駕籠で外出できる身分に出世したことになります。

この事件の仔細を『梶川与惣兵衛日記』に残した。長矩が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか」と叫んだ話もこの日記を根拠とするものである。 

  

貞享元年(1684年)8月28日に起こった若年寄稲葉正休による大老堀田正俊への殿中刃傷の際にも居合わせたといわれる。

( ウイキペディア参照 )