''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

今から、吉良家に討ち入りに参ります 「忠臣蔵外々伝」より。

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朝から雲一つない晴天の京都伏見の地です。
いい天気です。
朝起きて、新聞を取りに玄関を出ると、すでにお日様が出ています。
最近ないほどの晴天です。

 

何やら予感を感じますね。
元禄15年12月14日、今から300年以上前にあった赤穂事件です。

 

そのてん末は、ご存知のように、旧浅野家臣が、亡君の恨みを晴らすため、本日から明日15日未明にかけて、吉良家に討ち入った事件が、赤穂浪士の「忠臣蔵」ですね。
芝居の話と、史実が混同されていることも多いです。

 

つまり、イメージ先行しています。
しかし、日本の歴史の中で、大きな事件と考えています。
歌舞伎に芝居に、現代でも、ドラマ、映画と日本人のスピリットでもあります。
特に私は、播州の生まれです。
特別な感情がありますね。

 

子供の頃、年末年始に、「忠臣蔵」のドラマや映画は、風物詩でもありました。
日本人に好まれるエッセンスが、入っています。
戦後GHQの統治下でも、この「忠臣蔵」がご法度の時代があったと聞きます。
当然でしょうね。
戦、それが太平洋戦争に繋がります。

 

吉良家討ち入りは、偶然の偶然、つまり必然の出来事だったと思います。
家康公から、秀忠公、家光公までにも、大名家の取りつぶしが多々ありました。
しかし、五代将軍綱吉公の時代だけで、これらの数をはるかに越える大名家の取りつぶしがあったとも、聞きます。

 

政治が、無茶苦茶な時代です。
時は、人より、お犬様の時代です。
五代将軍綱吉公、犬公方と呼ばれる所以です。
憐れむなら、犬より人です。

 

そんな時代の庶民の喝采があったわけです。
武士も戦のない泰平の元禄時代です。
江戸期のバブル時代です。
そんな中、真の武士道に、武士も拍手喝采です。

 

吉良家の屋敷替え、吉良の隠居、準備は万端です。
時が、赤穂浪士にお味方です。
時がと言うより、幕閣の意向でしょうね。
右大将(頼朝公)以来の定法「喧嘩両成敗」を修正するシステムです。

 

途中で、弟・浅野大学をもって、お家再興なら、この事件の結末は無かったです。
時が、天が味方したと言えます。

 

それにして、事件の発端・松の廊下の事件より、1年9ヶ月耐えたのが凄いです。
「耐え難きを 耐え 忍び難きを 忍び」
まるで賢くも、玉音放送のようなフレーズです。

 

準備も万端に、この日を待っていました。
吉良上野介殿が、この日屋敷に在宅していることを、確認したからです。

 

吉良殿も不憫です。
きっと、何故、世の中が、吉良を悪とするのか、最後まで知る事がなく、この世を去ったと思います。
それは無念だったと感じますね。

 

吉良上野介殿、浅野公に対するイジメが発端との、芝居のストーリーです。
原因は不明です。
それもおかしいでしょう。
これだけの事件で、原因が分からないというのが、おかしいです。

 

吉良殿は、名君として名が知れています。
領地、吉良では、白馬に乗って、領内の視察を度々されているようです。
その時、領民にも、声を気さくかけられているとも聞きます。
今でも残る黄金堤は、吉良の殿様の力です。
旧吉良領内では、今でも忠臣蔵は見ないと聞きます。

 

今日もテレビ欄に、この赤穂事件の特集が組まれています。
ドラマではありません。

 

あの「松の廊下の事件」の原因が、鰹節とする奇怪な見出しもありました。
確かに、吉良様への挨拶の贈り物が、鰹節一連と巻絹一巻というのが、その言い回しでしょうね。

 

吉良家は、名門中の名門です。
武家の棟梁・源氏の正統な血筋です。
「金持ち喧嘩せず」とことわざのように、良家では、争いごと戒める傾向にあります。
人の恨みほど怖いものはありません。
この事件が、そのいい例です。

 

原因は、赤穂の良質な「塩」を巡るとも言われます。
吉良家も塩を作っています。
しかし、赤穂ほど良質ではありません。

 

その製塩方法を巡って、トラブルがあったと言うのです。
これも、後付だと思います。
大河ドラマ元禄太平記」も、ここに原因を求めています。

 

どれもしっくり来ない原因です。
ただ、浅野公の健康問題が一番近いと思います。
性格や精神的な「持病」です。

 

若くして、主となった浅野公は、人から、ああやこうやと指図されることが、お嫌いのようです。
自分で細かいことまで、お決めになられるようです。
高家の挨拶の進物に、鰹節というのも、殿様の意向でしょうね。
賢い江戸家老が居たなら、殿様には、左様にと言いながら、それ相応の進物したことでしょう。

 

因みに、同じく院使接伴役の19才と年若い、伊達左京亮村豊殿は、加賀絹数巻、黄金数枚、加納探幽筆の竜虎の双幅となれば、家老の配慮に違いは歴然のようです。
当時の進物は、目上の者に対する礼として意味が有ったとも、物の本に書いてあります。

 

礼を欠かれたと不愉快に思われたことは、当然でしょう。
されど、それが為に、イジメたとは思えません。
血筋のいい、名君ですからね。

 

きっと吉良殿は、相手にされていなかったのかもしれません。
そうした態度が、神経的な持病「痞(つかえ)」があったことと関係があったと思いますね。
痞は、鬱病的な症状のようです。
めまいがしたり、頭痛がしたり、動悸は出たり、人によって違うでしょうね。

 

松の廊下で、大奥留守居役・梶川与惣兵衛と、吉良上野介殿が立ち話をしていた時、10間(18メートル)余り先から、浅野の殿様が奇声を発しながらいいつつ、小さ刀で切りつけたことになります。
この時、大奥留守居役梶川与惣兵衛が、浅野の殿様の後ろから、羽交い絞めにして、あの有名な台詞「殿中でござるぞ」と発して、制します。

 

人通りもあるざわざわした儀式の当日、そんな遠くから、吉良上野介殿が「田舎侍」と悪口を言ったはずもないし、聞こえるはずもないはずです。
つまり、二人が話をしているだけで、自分の悪口を言っているのだろうと、勝手な被害者意識の妄想が働いたことになります。

 

精神的に、病んでいますからね。
子供の頃からだと思います。
そうした性格的なものもあったと思います。

 

その為に、浅野殿様の正室・阿久里の方は、浅野の一族である三次浅野長治の娘です。
五万石の城主なら、もっといい相手もいたはずです。
それを親戚である一族の側室の娘を妻にしたというのも、少し不思議です。
時に内匠頭17歳、阿久里10歳だったと言います。

 

他家に知られてはまずいこともあったと思われても、不思議ではありません。
若くして夫婦になって、子が一度もないのも不思議な気がします。
いろいろな妄想は沸きます。
「妄想すること莫(なか)れ」、禅語の「莫妄想(まくもうぞう)」が浮かびました。

 

相対的な考えに立つと、いろいろ想像できますが、やはり、真実は一つでしょうね。
殿様という立場を省みず、暴挙に出た以上、気持ちが落ち着けば、冷静になります。
うつ病的な、躁鬱の対比が感じられます。
「乱心であろう」との助け舟も自分で否定します。
乱心でなく、遺恨があったと言っていることも、被害者意識の表れと感じます。

 

やはり、原因は、不明の闇の中です。
気が滅入ります。

 

それじゃと、一杯呑みたくなりました。
今年最初の我が家のヌーボーです。
今年漬けた梅酒を試飲してみました。

 

まだまだ、味が若いです。
ホワイトホースの付属していたグラスで頂きました。
味が若いので、ソーダで割ることを思いつきました。
「そーだ。そーだ」と納得して下さい。

 

梅と言えば、47の義士の1人・大高源五忠雄の辞世の句を思い出します。
「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」、この日は梅酒で祝杯を挙げましょうかね。
それなら、吉良上野介殿の白い愛馬に因み、ホワイトホースのグラスに注ぎました。
ソーダと取り成すシュワシュワな泡の時代の話です。

 

相手が変ると、悪も変わります。
悪も善も相対的な存在です。
世の中のすべてが悪で、すべてが善です。

 

しかし、仏の世界では、絶対的な悪であり、絶対的な善の世界でもあります。
私は、ありがたい仏縁を頂いています。

 

すべての出来事に、原因と結果があるはずです。
因果の関係です。

 

この世は、悪い縁を断ち切り、いい縁を結ぶようにして頂いているのが、仏縁です。
知らず知らずに、悪い縁を断ち切り、いい縁を結んで貰っています。

 

悪い行いをしないで、いい行いをすることにすべて起因します。
仏のみ教えにおすがりして、身を任せてみれば、見える世界も違ってくるように思えます。

 

日々の暮らしの中、ありがとさんという感謝の気持ちを持てば、目線を下げた幸せを感じます。
生きているのでなく、何かの力で生かされています。

 

私の場合には、仏様です。
ありがたいことです。

 

上を見ても、下を見ても、キリがないです。
今ある身の丈に応じた暮らしに、幸せを見つけられることが、幸せです。

 

生きるとは、いろいろあります。
辛いことも、嫌なこともあります。
それも日々の暮らしです。

 

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすのが願いです。

 

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、歴史の暗い蔵の中で、その蔵が開こうとしているのを、じっと待っている長い話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。