日曜日は、天気が良かったので、弁当の用意をして、自転車で鶴見緑地公園に行きました。
ちょうどの名残の桜が咲いていましたよ。
散り行く桜に、モノ悲しさを感じます。
古文的に言うなら、「いとをかし」でしょうね。
趣が深いと言う程度の意味愛いでしょうかね。
日本人は、桜が大好きです。
平安初期まで、花と言えば、梅を指して、平安中期以降、花と言えば、桜を指すとも習った記憶があります。
梅の方が、ちょっと品がいいです。
桜と言えば、花見の酒宴をイメージさせますね。
江戸時代に流行った花摘みが、江戸中期移行、桜の花見に変わって来ると聞きます。
川の洪水、氾濫などの治水工事の為に、川の堤に根を生やす桜の植樹などが、花摘みの習慣が、花見に移行したのでしょう。
趣向を凝らした雅な弁当箱に、箸、取り皿、酒徳利を一つの箱に設えた贅沢なモノも、元禄時代にも見ることが出来ると聞きます。
裕福な商家の旦那衆なら、大川の舟で川面の桜を目立たかもしれません。
それじゃ、落語の「百年目」を思い出します。
米朝さんの「百年目」聞きやすいです。
分枝さんの「百年目」も捨てがたいです。
米朝さんの「百年目」の良さは、意地悪で、裏表のある遊び人番頭と、丁稚、幇間(ほうかん)それに旦那さんと言い、品と色気が感じさせてくれます。
米朝さんの学者肌といい、船場の大店の主人といい、品格と格調が落語に生きています。
落語の「天狗裁き」の奉行等は、その最たるものだと思いますね。
落語「世代念仏」の枕にそれ事が多い門跡や位の高い高僧などの「南無阿弥陀仏」は、身震いしそうになります。
それと対極する長屋の主の信心もない調子の高い「南無阿弥陀仏」の対比が面白いですね。
日曜日に、親子3人して、寝屋川の橋を渡って、鶴見のイオン近くに進路を進めて、鶴見緑地に到着しました。
時間は、午前10時半頃です。
去年と同じ場所が置いていたので、そこにテント(コールマンのツーリングドーム)を張って、ラグシートを敷いて、親子3人ゴロリと横になって、上を見上げれば、名残の桜です。
フライを掛けずに、メッシュにして、風を通しました。
暑くもなく、寒くもなく、心地よく過ごせました。
弁当食べて、嫁のタブレットで、YouTube見て、昼寝して、時間を過ごしました。
ゆっくり出来ました。
公園には、数多くテントが張られています。
色とりどりで、十人十色のスタイルで過ごされていました。
春の休日の景色でしたね。
天気といい、時間といい、空間といい、ありがたいですね。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。