2月までの開催と知りました。
休みの加減も付きません。
しかし、機会があれば見てみたいですね。
ここには、あの浅野の殿様、内匠頭(たくみのかみ)の口宣案(くぜんあん)が公開されています。
口宣案とは、延宝8年(1680)、朝廷から「従五位下 内匠頭」の官位を賜った書類です。
それも、あの松之廊下の刃傷事件、本人の長矩(ながのり)の物です。
本物のようです。寛文7年(1667)の生まれですから、その時に、13歳です。
休みの加減も付きません。
しかし、機会があれば見てみたいですね。

ここには、あの浅野の殿様、内匠頭(たくみのかみ)の口宣案(くぜんあん)が公開されています。
口宣案とは、延宝8年(1680)、朝廷から「従五位下 内匠頭」の官位を賜った書類です。
それも、あの松之廊下の刃傷事件、本人の長矩(ながのり)の物です。
本物のようです。寛文7年(1667)の生まれですから、その時に、13歳です。
早くに父親を亡くし、延宝3年、9歳にして浅野家を相続します。
なかなかの苦労人かもしれません。
なかなかの苦労人かもしれません。
江戸時代、殿様にもいろいろあります。
大名家なら、城を持つ城主、城を持たない領主です。
一つ国に一つしか城は造れません。
ですから、大名がすべて城を持っているのではありません。
大名家なら、城を持つ城主、城を持たない領主です。
一つ国に一つしか城は造れません。
ですから、大名がすべて城を持っているのではありません。
領主の中にも、1万石を超える大名の他に、吉良家のような、1万石以下小名があります。
江戸時代になると小名とは呼ばなくなるようですが、寄合旗本と言われます。
幕府分類では、旗本に属します。
江戸時代になると小名とは呼ばなくなるようですが、寄合旗本と言われます。
幕府分類では、旗本に属します。
しかし、大名家からの分家は、通常の徳川の旗本とは、すこし違っていたようです。
中には、大名家と同じく、参勤交代がある場合もあります。
そんな領主の住まいを陣屋と言います。
中には、大名家と同じく、参勤交代がある場合もあります。
そんな領主の住まいを陣屋と言います。
中には、館や砦と言った構えもあります。
もちろん、藩と同じくそこでは政務が行われる場合もあります。
京都の宇治田原は、そんな代表的な陣屋です。
五千石(明治には、石高改め1万石)ですが、参勤交代もあります。
大名並びの格式です。
もちろん、藩と同じくそこでは政務が行われる場合もあります。
京都の宇治田原は、そんな代表的な陣屋です。
五千石(明治には、石高改め1万石)ですが、参勤交代もあります。
大名並びの格式です。
赤穂浅野家にも、二つの陣屋があります。
その一つが、寛文十一年(1671)、赤穂藩主浅野内匠頭長直の孫、浅野美濃守長恒が分家した若狭野陣屋です。
若狭野十二ヶ村三千石の知行があります。
ここの伝わっていたのです。
その一つが、寛文十一年(1671)、赤穂藩主浅野内匠頭長直の孫、浅野美濃守長恒が分家した若狭野陣屋です。
若狭野十二ヶ村三千石の知行があります。
ここの伝わっていたのです。
実は、浅野美濃守長恒様は、大石内蔵助の親戚です。
長直の姫さまと家老大石頼母助良重(内蔵助の大叔父)との子供です。
父親が生きていたら、いとこに当ります。
浅野美濃守長恒の子供となら、「はとこ」、「ふたいとこ」ということになります。
長直の姫さまと家老大石頼母助良重(内蔵助の大叔父)との子供です。
父親が生きていたら、いとこに当ります。
浅野美濃守長恒の子供となら、「はとこ」、「ふたいとこ」ということになります。
浅野家の武勇と主君の仇を討った武士の鑑となれば、後世に資料として残したと言えます。
浅野と同時に大石の血筋ですからね。
浅野と同時に大石の血筋ですからね。
これも不思議です。
領主の娘が、池田の陪臣とはいえ、大名家です。
浅野の家老職に嫁ぐのも不思議です。
多分、生母の身分に関係していたのかもしれません。
領主の娘が、池田の陪臣とはいえ、大名家です。
浅野の家老職に嫁ぐのも不思議です。
多分、生母の身分に関係していたのかもしれません。
母親の兄弟は、みな大名家並びの万石以上ですからね。
ひとり、1500石の家老家の大石権内良昭(内蔵助の父)に嫁いでいます。
大石家の当主になる前に他界しています。
ひとり、1500石の家老家の大石権内良昭(内蔵助の父)に嫁いでいます。
大石家の当主になる前に他界しています。
言い換えれば、内蔵助の名門の血筋です。
内蔵助の祖母も、伏見場の戦いで有名な蒙将鳥居忠元の孫です。
内蔵助の祖母も、伏見場の戦いで有名な蒙将鳥居忠元の孫です。
無理せずに、500石から1000石程度なら仕官も出来たはずです。
親戚筋が大変いいですからね。
無理して、浅野家に忠義して討ち入ることもなかったはずです。
親戚筋が大変いいですからね。
無理して、浅野家に忠義して討ち入ることもなかったはずです。
成功する率は、当時として数パーセントもない、「0」に限りなく近いです。
討ち入った後に、残った家族や親戚筋にも迷惑がかかることは承知です。
討ち入った後に、残った家族や親戚筋にも迷惑がかかることは承知です。
それでも、行った心中は如何ばかりだったのでしょうね。
やりたくなかった。
これが本音でしょう。
やりたくなかった。
これが本音でしょう。
ですから、弟の浅野大学長広(ながひろ)が小さいながら、1万石でもお家再興があれば、内蔵助としても、討ち入りはしなかったはずです。
絶対になかったです。
絶対になかったです。
得した人はいないと思います。
すべての始まりは、責任ある方の行動から始まりした。
何があったのか、不明のままです。
分らずじまいに、吉良の殿様も黄泉に旅立ちました。
すべての始まりは、責任ある方の行動から始まりした。
何があったのか、不明のままです。
分らずじまいに、吉良の殿様も黄泉に旅立ちました。
あの世とやらで、内匠頭は、家臣に如何ばかり詫びたことでしょうね。
何もないのが一番の幸せです。
今日も一日無事に過せるように手を合わせるばかりです。
今日も一日無事に過せるように手を合わせるばかりです。
最後まで、長々しい話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。