''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「旗本がみた忠臣蔵―若狭野浅野家三千石の軌跡―」に行きたくて。

今、東京都江戸東京博物館で、「旗本がみた忠臣蔵―若狭野浅野家三千石の軌跡―」が開催されています。
京都に住まいします者としては、なかなか行けません。
師走も後残すところ半月もありません。

 

2月までの開催と知りました。
休みの加減も付きません。
しかし、機会があれば見てみたいですね。
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ここには、あの浅野の殿様、内匠頭(たくみのかみ)の口宣案(くぜんあん)が公開されています。
口宣案とは、延宝8年(1680)、朝廷から「従五位下 内匠頭」の官位を賜った書類です。
それも、あの松之廊下の刃傷事件、本人の長矩(ながのり)の物です。
本物のようです。寛文7年(1667)の生まれですから、その時に、13歳です。

 

早くに父親を亡くし、延宝3年、9歳にして浅野家を相続します。
なかなかの苦労人かもしれません。

 

それにしても、改易、つまり断絶された大名家の口宣案が残っているのも凄いです。
親戚の若狭野浅野家に伝わっていたものです。
それが公開されています。
赤穂浪士」マニアとしては、一見の価値ありです。

 

江戸時代、殿様にもいろいろあります。
大名家なら、城を持つ城主、城を持たない領主です。
一つ国に一つしか城は造れません。
ですから、大名がすべて城を持っているのではありません。

 

領主の中にも、1万石を超える大名の他に、吉良家のような、1万石以下小名があります。
江戸時代になると小名とは呼ばなくなるようですが、寄合旗本と言われます。
幕府分類では、旗本に属します。

 

しかし、大名家からの分家は、通常の徳川の旗本とは、すこし違っていたようです。
中には、大名家と同じく、参勤交代がある場合もあります。
そんな領主の住まいを陣屋と言います。

 

中には、館や砦と言った構えもあります。
もちろん、藩と同じくそこでは政務が行われる場合もあります。
京都の宇治田原は、そんな代表的な陣屋です。
五千石(明治には、石高改め1万石)ですが、参勤交代もあります。
大名並びの格式です。

 

 赤穂浅野家にも、二つの陣屋があります。
その一つが、寛文十一年(1671)、赤穂藩浅野内匠頭長直の孫、浅野美濃守長恒が分家した若狭野陣屋です。
若狭野十二ヶ村三千石の知行があります。
ここの伝わっていたのです。

 

親戚も、とばっちりも当然ありました。
当時の処罰は、連座制です。
それにも関わらず、こうした資料が残っているわけが推測出来ます。

 

実は、浅野美濃守長恒様は、大石内蔵助の親戚です。
長直の姫さまと家老大石頼母助良重(内蔵助の大叔父)との子供です。
父親が生きていたら、いとこに当ります。
浅野美濃守長恒の子供となら、「はとこ」、「ふたいとこ」ということになります。

 

浅野家の武勇と主君の仇を討った武士の鑑となれば、後世に資料として残したと言えます。
浅野と同時に大石の血筋ですからね。

 

あまり取り上げられませんが、内蔵助の母親は、クマ姫さまですね。
池田の天城3万5千石の領主、池田由成(いけだ・よしなり)の娘です。
池田家の重臣ですね。

 

これも不思議です。
領主の娘が、池田の陪臣とはいえ、大名家です。
浅野の家老職に嫁ぐのも不思議です。
多分、生母の身分に関係していたのかもしれません。

 

母親の兄弟は、みな大名家並びの万石以上ですからね。
ひとり、1500石の家老家の大石権内良昭(内蔵助の父)に嫁いでいます。
大石家の当主になる前に他界しています。

 

言い換えれば、内蔵助の名門の血筋です。
内蔵助の祖母も、伏見場の戦いで有名な蒙将鳥居忠元の孫です。

 

無理せずに、500石から1000石程度なら仕官も出来たはずです。
親戚筋が大変いいですからね。
無理して、浅野家に忠義して討ち入ることもなかったはずです。

 

成功する率は、当時として数パーセントもない、「0」に限りなく近いです。
討ち入った後に、残った家族や親戚筋にも迷惑がかかることは承知です。

 

それでも、行った心中は如何ばかりだったのでしょうね。
やりたくなかった。
これが本音でしょう。

 

ですから、弟の浅野大学長広(ながひろ)が小さいながら、1万石でもお家再興があれば、内蔵助としても、討ち入りはしなかったはずです。
絶対になかったです。

 

そのチャンスを幕府が踏みにじったことになります。
何度も再興するように、幕府にいろいろな筋から、金銭も使い頼みます。
そうした上で、同志の暴挙を諌めるべく、「赤穂浪士」として率した行動になります。

 

なるべくして、なした。天が天命に与えたのかもしれません。
天の命とあれば、すべてが難から易に変わります。
そんな行動が赤穂浪士の討ち入りでもあります。

 

得した人はいないと思います。
すべての始まりは、責任ある方の行動から始まりした。
何があったのか、不明のままです。
分らずじまいに、吉良の殿様も黄泉に旅立ちました。

 

あの世とやらで、内匠頭は、家臣に如何ばかり詫びたことでしょうね。

 

何もないのが一番の幸せです。
今日も一日無事に過せるように手を合わせるばかりです。

 

最後まで、長々しい話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。