''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

100kcalのナビスコクッキーから測ります。

ついつい食べ過ぎてしまいます。
もちろん、呑みすぎもあります。
暴飲暴食に走り気味になっていることに、少し反省しています。
体重計も、あれあれと思えるほどです。

ここ1ヶ月、頚椎を痛めたために、薬を飲まざるを得なかった。
その為、必要以上に食事の量を取る羽目になったのが、大きな原因です。
肩も首も痛みは、ひいたものの、痛みは少し残っています。

何事にも、日にち薬と納得しています。
計画性が必要です。

小腹が空いたと、何か食べたくなります。
空腹に耐えることを旨とすれば、何事も苦になりません。

しかし、そこは凡夫の悲しさです。
ついつい何かを理由付けて、食します。
何かいい方法はないかとコンビニに(コンビニかよってね!!)立ち寄りましたね。
あるんです。
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ナビスコのクッキーです。
一袋は100kcalになっています。
計算がしやすいですね。
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これなら、数字ダイエットの初心に戻って、体重を管理出来ます。
仏教用語、特に禅の言葉に「測量」(しきりょう)というのがあります。
何度かこのブログでも紹介しています。

要は、両手をたたく。すると音がします。
じゃ、それは右手が鳴ったのか、左手が鳴ったのかと尋ねます。
両手が鳴った。
それじゃ、常識人です。

禅では、どっちがなったのかと尋ねています。
答えは、どちらもなった、つまり、右でも左でもいいんです。

その過程を仏の世界とともに考える場です。
何かを測る。何を計るのか?
策略を謀るのか、はたまた、自分の腹囲を測るのか、何かを数字に置き換えて、万人が分かる様にするだけです。

数はそう意味で便利です。
その数にしても、単位があります。
センチなのか、フィートなのか、トンなのか、様々の物差しを一つに統一することによって数も、その対比をなすことが出来ます。

人の考えることは、見えることが出来ません。
「妙」の世界です。
数にして、文字にして初めて見える世界もあります。
これが「法」の世界です。

どちらの手が鳴ったのか、見ることは出来ません。
音は見えませんからね。
右が鳴ったと言えば、右が鳴った気になります。
左が鳴ったと言えば、左が鳴った気になります。

あやふやな世界です。
「空」の世界です。
鳴ったのは一瞬です。

本当になったのか、どうかさえ後では分かりません。
文字や数字になったものは、後でもそれが分かります。

録音する。
それもありです。
しかし、この場でなったのか、他で録音したものか、何の証拠もありません。

推し量ることが出来るだけです。
推測することは出来ます。

そんなあやふやな世界が、この現世であるとも言えます。
つまらない事に、気持ちを悩まされて、生きていくことも、そう思うと無意味です。
すでにあった過去のことを思い出しても、今ではありません。
本来あったのか、なかったのかさえ、あやふやなことも多いです。

時にいらいらします。
それも、本来無意味です。
その時にイライラしてのは、仮の想像に、イライラしたのです。
時間が経っても、思い出しイライラします。
すでに今ないことに心を捕らわれます。

物事を推し量ることは、難しいです。
捕らわれることもあれば、捕らわれないこともある。
大して代わりはないのです。

こう思うと、イライラもすこし納まります。
それでも、イライラに悩まされた時は、観音さまの名を一心に唱えます。
不思議とイライラが去ります。
観音経の、ご利益です。
そうした神通力が、観世音菩薩さまにはあります。

信じることも信じないことも、どちらでもいいことです。
でも、ご利益を感じられることは、仏縁を頂いている私としては、大変ありがたいです。
そのご利益が、本当に観音さまのお力か、そうでない偶然なのか、問題ではありません。

ご利益を頂いているのは、事実です。真実です。
見えないものが、見えるものとして、感じます。
そんなご利益に何度も何度も助けられています。

見えないものが、現実世界にあります。
右が鳴ったのか、左が鳴ったのか、そんなことは大して大事なことではありません。
鳴ったと見えないものの存在を自分感じられたことが、大切です。

この世は「空」と言いました。
しかし、「空」という空間に、見えない音が感じられたという心の振動は、確かにあったことです。

イライラしたり、世俗のしがらみも、「空」と思えば、気持ちも楽になります。
架空の物事に惑わされずに、心も「空」の穏やかな気持ちに保てると、ありがたいです。
平穏無事がありがたいです。

何もなかったことが、ありがたいということです。
物が無いというのは、いまそこに無いだけです。
「無い」という言葉があるので、「有る」と言葉が、対であるだけです。
今無いだけです。

貧家に住しています。
富も名声もありません。
しかし、それは今ここに無いだけです。
有ればいつかは減ります。

あるかないかの違いです。
それほど大きな違いもないと、しぶしぶ納得も出来ます。
それが測りきれないものです。

100kcalという、数に管理されて暮らすのも楽しいですし、管理されずに暮らすのも楽しいです。
多くを望まず、今ある幸せを、今感じる。
これほどの幸せはありません。

ありがとさんと思える気持ちに安堵感があります。
仏縁を頂いているという安堵感でもあります。

余分な「欲」をセーブするのも、欲しないのも、結果としては変わりません。
自然体で暮らして行けたら、それがしあわせです。

今日も平穏無事に暮らせる喜びに、手を合わせます。

最後まで、右も左も見えない話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。