''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

こんな暑い日は、鰻丼とうざくで一杯です。

今日は、朝から出張で、奈良に言って来ました。
天気はいいが、一日中缶詰状態でした。

 

JRの電車で、京都から奈良へ向かったのは、初めてです。
意外に近いと感じたのは錯覚でしょうかね。
1時間ほどで到着です。

 

昨日は日曜日には、すこし精をつけようと昼ごはんは鰻にしてみました。
鰻丼とうざくです。
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なかなか、この時期の鰻の値段は高いですね。
こんだけでって感じです。
しかし、鰻丼だけでは贅沢と思い、蒲焼の端を短冊切りにして、うざくを作りました。
甘酢仕立てです。
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鰻の短冊で、うざくですね。
字は、鰻作と書いたりすることもありますね。
細切り茗荷やしょうがをあしらえば、プロの料理になります。
茗荷はうざくとよく合います。

 

もちろん、鰻丼にもうざくにも、イチラーですから、一味唐辛子はフリフリします。
鰻丼には、やはり粉山椒が合いますね。
一味はご愛嬌です。

 

古い話ですが、ペーパーの料理人として、鰻屋で居た事もあります。
鰻屋で仕事したら、あまり鰻は好きにはなりませんね。
あのぬるっとした鰻に鳴かされぱなしでした。
あまりいい思い出はありません。

 

開いた鰻に竹串を刺したりしてましたからね。
これがなかなか難しいです。
素人にはならなかできないですね。
開きも鰻の職人さんが、専門でさばきます。

 

後は焼きです。
これも一生経っても完成には至らない修行です。
10年経っても一人前、そこからが職人としてのスタートと言う感じですね。
さばき、串打ち、焼きと、永遠の修行ですね。

 

私が居たのは、関東流の背開き、一度蒸してから、焼くやり方でした。
蒸しも難しいです。
すこし目を離すと、蒸し過ぎてしまいます。
いい思い出のない鰻屋です。

 

この時期、毎年鰻ネタを書いています。
去年も一昨年も、やはり書きました。
去年は確か「うなぎで一杯」というタイトルで書いたのを思い出します。

 

鰻のイメージを悪くしているのは、もう一つありました。
日本霊異記という書物です。
平安時代初期に書かれた仏教説話ですね。

 

その中、上の11話に出てくる話です。
播磨国の餝磨郡(しかまこほり)の濃於寺近辺に住む漁夫の話です。

 

奈良の元興寺の僧慈応が、檀越の招きで、人を集めて法用する話の中での出来事です。
法華経の講義をするための説話です。
子供の頃から、長い期間網で魚を取っていた漁師が、体が炎で焼かれるという話です。
呪文を唱えて、その漁師を助けます。

 

この話と同じくして、中国でも不思議な話があります。
鰻を料理していた人が、その殺生の罪で、その子供の頭が鰻のような姿で生まれて来たというのです。
頭以外に人間です。
真偽の程は別にして、魚や鰻を扱ったことに対する殺生罪です。

 

この頃、日本も仏教の影響で、肉食が無くなった頃だと思います。
でも、魚は貴重なたんぱく質ですからね。
当然食していました。
食肉を禁じていた江戸時代までも、ずっと魚は食していましたからね。

 

この辺の戒めも平安時代ですから、あえて有ったのかも知れません。
この濃於寺は、どこの寺かははっきりしていません。
しかし、奈良の元興寺の僧と関係するというからには、当時播磨にあった仏陀山乗福寺ではないかと推測できます。
歴史マニアの素人の推測です。

 

高句麗の僧恵慈が開いた寺とされています。
僧恵慈は、三宝の棟梁と呼ばれる僧で、推古天皇3年(595年)に渡来され、聖徳太子の仏教の師しても名を馳せています。

 

この方が、仏教経典(法華経勝鬘経維摩経)を日本に伝えました。
その為に、聖徳太子は、これらの注釈書「三経義疏」を記しました。

 

元興寺という寺は、別名「飛鳥寺」と呼ばれます。
飛鳥寺には複数の呼称があると聞きます。
法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称すると言う様になったようですね。
(『ウィキペディア』参照、一部抜粋)

 

播磨と聖徳太子はご縁が深いです。
領地の関係もあります。
また、播磨には太子町と呼ばれる地名もありますからね。

 

聖徳太子は、病気療養のために、伊予の道後温泉に行った記録があるようです。
この時、播磨の地を通ったと推測されます。
僧恵慈も随行しています。

 

僧恵慈は、その途中で、自分の故郷の地によく似た場所を見つけた。
ここに寺を作ったというのはどうでしょう。(勝手な推測です)
何かのメッセージがあるはずです。
ここを安住の地にしたいと思っていたとは考えられないでしようかね。(勝手すぎる推測です)

 

僧恵慈が祖国に帰国した後、その死後も、この後も、この地はどういうわけか、高僧が足を運びます。
不思議な記述です。
こんな田舎に、あえて運ぶ意味が見つかれません。

 

さてはどうであれ、鰻というと、この話が枕詞みたいに付いてしまう私です。
鰻祟りでしょうかね。
それとも、遠い過去世に、この時代のご縁が有るのでしょうかね。
いつか解き明かしたい歴史の一片です。

 

それでも鰻を食べて、やはりご馳走です。
ご飯は必ず必要ですね。
鰻だけで一杯は出来ません。
まだまだ通には程遠い私です。

 

ごはんに鰻のタレもたっぷり振ります。
このごはんが美味いんですよね。
ありがたいご馳走です。
でも、一年で1、2度しか鰻は食べませんね。

 

法華経説話といういつもこの話を思い浮かべます。
トラウマです。
鰻だけに、トラ丑(うし)というべきでしょうね。
ちょうどいい落ちになりました。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、鰻の煙の匂いのない話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。