''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

池波正太郎著『仇討群像』、「坊主雨」より。

昨日は、台風が遅い帰宅とかち合うのではと心配しましたが、小雨が降ったくらいでしたね。
この雨と台風で、少し寒さも緩んだ感じがあります。

暦をも見ると、もうすぐ10月も終わりとなりますね。

神無月 降りみ降らずみ さだめなき 時雨ぞ 冬のはじめなりける

後撰和歌集」の冬の出てくる有名な和歌ですね。
この時期の雨と言うと、どうしても古い和歌が思い出されます。

旧暦10月は「神無月(かんなづき)」と呼ばれます。
これは全国の神様が会議をするため、出雲に集まるので、日本中の神様がいなくなってしまう、ということから付けられた名称ですね。

出雲では、逆に「神在月(かみありづき)」と呼ぶようです。
不思議な季節感ですね。

この和歌の作者は、詠み人しらずです。
和歌とさることながら、料理でもこの歌が元になり、「時雨煮」という言葉があります。
料理には、和歌や茶人の数寄なネーミングが、妙も得ています。

「時雨煮」という言葉と、この時期の感じが合います。

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池波正太郎著に『仇討群像』という本があまります。
この群像というシリーズには、『剣客群像』、『忍者群像』となかなか面白い作品があります。
どれも短編小説ながら、十分にその池波ワールドを堪能できます。

『仇討群像』の中に、『坊主雨』という短編小説があります。
主人公は、入江長八郎、蜂谷大学の道場の師範代を任されています。

一日の終わりに、酒一合を手酌酒で、晩酌です。
この一合を呑み終わる頃に、下女が熱い汁とめしを運んでくる。
そして、師匠の大学が「今日もごくろうさん」と現れるという話の筋書きです。

師匠は下戸ですから、呑みません。
この何気ない話の出だしが、後の運命を狂わせ予感があります。

師匠は、病気のため、長八郎に道場を譲ってもいいと考えています。
しかし、千石の大身旗本、堀内五左衛門に奉公している兄の栄之助が、同僚の坂田彦蔵に惨殺されます。
兄の敵討ちというストーリーです。

ここは、池波正太郎の人間模様が渦巻きます。
一癖も二癖も、人間の裏側を描き出しますね。
仇討ち相手の彦蔵と出会います。

彦蔵から声をかけます。
仇討ちにして、殺してくれと頼みます。

しかし、その兄を殺した理由は、兄と主人の内儀の不義密通が原因と判明します。
そのショックもあり、兄の敵を討ち取ることさえ出来ません。

輪をかけて、師匠も数日前に、既に他界していることも知りません。
あまりにもむごい仕打ちです。

数日前まで、平穏な生活を送っていたのですからね。
人の人生とは、こうしたものかもしれません。
悪い縁が複雑に絡んで、最悪な状態になります。

そして、15年後の寛政7年の秋、北国街道の屋代宿外れにて、旅の浪人4人が、斬り合います。
一人が惨殺され、後の者は逃げます。
酒の上でも口論が原因と綴られています。
その無縁仏を弔ったの僧・了誉が、兄の敵、彦蔵だったのです。

「わしも、この人も・・・・たれが蒔いた種やら・・・」とつぶやきながら、墓標を書き記します。
横にいる小坊主は、目をみはります。
名を知らないはずの、無縁仏の名を書き記したからですね。

「俗名・入江長八郎之墓」
無益な人生です。
何が人の人生を狂わすか、分りません。
これじゃ、本当に神さんもいないじゃないですかね。

兄の仇討ちさえなければ、師匠の蜂谷道場の主になっていたのかもしれません。
酒と剣術が、この方の人生の終焉を早めましたね。
うー、後味のよくない話ですが、心にいつも留め置く話です。

雨、神無月というと、一連の連想ゲームのように思い出します。
それなら、「入江長八郎之バカ」ではありませんかね。

15年しても、兄の犯した不埒な行いと、兄の死、すべてが人生を狂わし、立ち直ることができないままの人生だったのですね。
それも、哀れな出来ことです。

神無月 切りみ切らずみ さだめなき 仇討ち悲し 人の終わりぞ 

人生には、こうした自分の運命を左右する出来事があるのも、事実です。

いい縁を結び、悪い縁を断ち切ることが、この世の修行です。
この時代に、生を受けたことに感謝です。
ありがたい仏縁を頂けた事にも、感謝したいです。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
うらむことも、うらまれることもない人生は、理想の世界ですからね。
あやかりたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、仇討ち話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。