''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

玄関先にも、花が咲いています。春ですね。

少し少し、春めいた気候になりつつあります。
未だ、桜はつぼみが膨らみかけたくらいですね。
でも、すぐに咲く用意をしているように感じます。

週末には、3分から5分に成ってくれれば、嬉しいですね。
疎水の桜は、大変綺麗です。
それで居て、街中の自然な桜並木であるところが、お気に入りです。
疎水の上に咲く桜と、水面に映る桜との二つの楽しみが、桜の楽しみを二乗してくれます。
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桜だけが、春ではありません。
玄関先に、花が綺麗に咲いています。
何とも色合いの鮮やかな鉢植えでしょうね。

残念ながら、我が家の玄関先ではありません。
本町筋当りの隣接しているお宅の玄関です。
いつも綺麗な花のお手入れをしておいでです。
通るたびに季節の花を、堪能させてもらっています。

「花に逢えば花を打(た)し、月に逢えば月を打(た)す」という禅語があります。
私のブログでも、時々登場します。
もっとも好きな禅語の一つです。

打つとは、殴る方の意味でなく、心を打(う)つ方の意味でしょうね。
花が綺麗と思えば、心がそれを満たすまで、それを眺め、天にある月が綺麗と思えば、飽くまで眺める。

時間ではありません。
1分でも、あれ綺麗に咲いているなぁーと感じることによって、心のバッテリーが充電すればいいわけです。
時間的な制約や空間ではないと感じます。

仕事の途中で、見かけた花、それを見て、あー綺麗だなぁと感じることによって、心は癒されます。
癒されるというだけでなく、心の中に英気がみなぎります。
そういう意味では感動したという意味でしょうね。

それもわざわだ、休日に遠出してクタクタになって、花を見に行くのでなく、家の近く、家の庭、身近なところに花はあるわけです。
家隆卿の「雪間の草」にも、春があるわけです。

仕事の行き帰り、花や月を見る心のゆとりがあれば、幸せです。
それを季節の移ろいと共に、自然と共に人も生きています。
森羅万象、自然の中に住しているのですからね。

仏の道も、比叡山に修行しないでも、日常の生活の中に、悟りの道はあるはずです。
道は近きにありです。
この花の咲いている本町通りも、いずれは長安に通じていると信じています。
この道を、一歩一歩歩む、それだけです。

花を見て、月を見て、春や秋を感じる。
ありがたいことです。
心や体が病んでいては、花や月は見えません。

東北の被災された方にも、あえてこの時期だからこそ、花に月に心を癒してくだされば、これ幸いです。
その間、何も考えないで、花や月の美しさに、心を空にして癒してください。

春来ない冬はないと言います。
生きて助かったのは、偶然にあらず、生きるべくして、その使命を帯びていると感じます。
嫌なことは考えず、本当の春来ることを祈ります。

人様の鉢植えを見て、これだけ幸せになれるなら、隣の家の花を、我が家の借景ではなく、失敬したようなものですね。
(今日はここしか笑うところないですよ。ねぇー、とおるちゃん!!)

身近なところに春は来ています。
探してみるのも楽しいです。
私は、やはりベロメーターで計ります。
食こそ、旬こそ、春の醍醐味ですからね。

ありがたい仏縁を頂いていることに、感謝しています。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすを旨としています。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、失敬な花の話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。