''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

枝垂れの桜と、出町柳のふたばの豆もちより。

今日も暖かい日差しが、貧家の玄関にも差しています。
桜もここ数日陽気に、5分咲きですね。
もう幾日で、8分そして、満開となります。

東北も桜の花も、咲き始める頃でしょうね。
一日も早い、本当の春の来ることを祈ります。
頑張れ、東北です。

昨日に続いて、家族会の話です。
日曜日に、我が貧家に宿泊の両親です。
少しゆっくりとした朝餉と、音楽を携帯のプレーヤーに入れて、そろそろ帰り支度です。

もちろん、このまま送りません。
京阪電車で、出町柳に行きました。
鴨川の辺りから、大文字の「大」の字をバックに両親の記念写真です。

ここまで来れば、名代 ふたばの豆もちが食べたくなります。
やはり、午前11時前ですが、20人以上並んで居られます。
私も母と並びました。

15分くらい並んで、手土産とここで頂くお餅を購入です。
熱いお茶も自販機で購入です。
向かうは、鴨川です。
橋の袂に、枝垂れの桜が綺麗に咲いています。
イメージ 2

5分から8分の間でしょうかね。
何とも品よく咲いています。
ここのベンチに腰掛けて、豆もち頂きます。
イメージ 1

3人して、餅が4つです。
やはりこの時期なら、桜餅は外せません。

豆もち、美味いですね。
素朴な味わいです。
豆の硬さがいいですね。
それに塩気が何とも、餡の持ち味を高めます。
朴訥とした昔ながらの味わいです。

店舗で数人が、店の奥で包んで居られます。
ガラス越しに作業が見られます。
作りたての味わいです。

餅が柔らかいですね。
他店のふたばでは、羽二重餅の豆餅もあります。
しかし、豆もちは、出町柳のふたばが最高です。
最後の晩餐に、デザートとして頂くなら、この出町柳のふたばの豆もちが食べたいです。
私がこよなく愛した味です。

間違っても美味すぎる餅ではありません。
懐かしい素朴な味わいです。
食べ飽きることのないあっさりとした淡味の真味です。

洪自誠の著『菜根譚(さいこんたん)』の一節を思い出します。
「醲肥辛甘(じょうひしんかん)は真の味にあらず、真の味はただこれ淡なり」
甘い饅頭には、当らないとお思いでしょうが、あっさりとした甘みは、塩味が効いているので、くどくないですね。

上品な餡を、餅が包み込む。
至福の菓子の宇宙です。
一つの豆餅に、味の宇宙が見えます。

大袈裟なって?
大袈裟かもしれません。
でも、無心になって食べている時、至福です。
これは、紛れもない事実です。

言っておきますが、美味すぎない。
一口で、味の感想は言えません。
一つの豆もちの中に、「起承転結」があります。
ドラマすら感じます。

桜を見ながらの、豆もち、至福です。
父も母も、何も言わずに桜を背に、ふたばの豆もちを食しています。

鴨川、枝垂れの桜、そして、ふたばの豆もち、二人の京都のいい記憶になってくれたと思います。
この後、二人が行きたかった特別な場所に向かい、この日の京都貧家の旅は終了です。

あっさりとした旅に成ったと思います。
その分、あれもこれもと思っていたことが、かなった貧家の京都旅行になったようです。
満足な二人の顔に、子として私もありがたいです。

味の上で、甘く、くどくないと言えば、仏の世界の功徳ですね。(ちょっと強引です)
功徳もしている、やっていると思うと、功徳に成りません。
それは、禅語の「無功徳」という言葉になります。
そう感じることだけで、功徳にはならないです。

東北の地震も、義援金やら支援やら、してやっていると思う気持ちがあれば、それは無功徳です。
させてもらっている、と感じる謙虚な気持ち支援には、必要だと感じます。
偉そうなことは、言えない私がいます。
平穏無事を、ただ祈るばかりです。

仏の求める一切衆生を助けるという願いを、まだまだ会得できていません。
願いが大きすぎて、私ごときでは、到底一心に願うことは出来ません。
まだまた、長安には遠いです。

今日を生きる、明日を生きるとは、日常です。
この日常にこそ、長安に通じる道があるはずです。
一日にして、長安には到着出来ません。

今出来るのは、祈るばかりです。
世の中が平穏を祈れば、世の中も人々も平穏になれるはずです。
私の生活の平穏、世の中の平穏ですね。

私の平穏は、世の中の平穏に繋がります。
世の中の平穏は、私の平穏に繋がります。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすを、日々の願いにしています。
ありがたい仏縁に感謝して、今日も歩みます。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。