''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

豚肉三昧、三枚肉の煮込みより。

今日も朝から、いいお天気の予感です。
洗濯物ならよく乾くでしょうね。
さすがに、仕事に行く前に洗濯するほどのゆとりはありません。
ばたばたしています。

日々の暮らしで、イライラすることも日常です。
それでも、そうならないように、自分と自問自答しながら、イライラ虫を抑えています。
それでも、こころがすっきりしないことが多いですね。
世の中の矛盾が、いろいろと目に見えることが多いです。

憂いても仕方ないです。
前に前に進むだけです。
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先日の日曜日に、差し入れがもう一つありました。
豚肉の煮込みです。

三枚肉を、丁寧に煮込んであります。
大根、玉子と、しょうがを効かせたホンに少し甘い目の味付けです。
いいですね。

天に乗っているのは、八角です。
肉料理によく使われる中華のスパイスですね。
しょうがもよく効いています。
「うまい」です。

この日は、昼に豚肉のスペアリブ、晩に豚肉のお好み焼きと、この煮込みです。
豚三昧の日曜日でしたね。
体型も豚さんにならないように、少しだけ節制しています。

よく煮込んだ豚の三枚肉は、ホロホロして食べよく煮込まれています。
「うまい」です。

三昧とは、仏教用語ですね。
三昧(さんまい、Samādhi, サマーディの音写)とは、仏教における禅、ヒンドゥー教における瞑想において、精神集中が深まりきった状態のことのようです。(Wikipedia参照)

とりあえず、三昧とは精神状態の一つと言えます。
いい意味で、何かに集中しているのが、三昧です。
そんな時間は至福でしょうね。

嫌なことも感じない、そんな時間ですからね。
趣味の時間でも、読書の時間でもいいわけです。
耽(ふけ)るというのもいいですね。
やりたいことを一心に邁進するには、いいです。

それが趣味だけでなく、仕事に反映されるといいでしょうね。
でも、趣味を仕事にすると辛いことも多いと思います。
野球なんか、そうですよね。
趣味でやる分にはいいですが、プロとなれば生活全ては、野球にささげます。

一流プロ選手は、夏場でもクーラーは付けません。
体を冷やすこと嫌うからです。

一流のプロの歌手も同じです。
喉に冷たい乾燥してエアコンの風はよくないと、部屋を閉め切って、湿度の管理に専念します。
(B'z(ビーズ)の稲葉浩志さんの特集で見ました)

それは、自分の満足の行く仕事のために、やるわけです。
歌声を守るために、お客さんに聞いてもらうために、自分のベストの状態にするというプロ根性ですね。
夏だと言って、エアコンのない密閉して空間は辛いと思います。

それも、三昧と言えますね。
三昧は楽な遊びでなく、究極の姿でも、やはり辛い結果になるはずです。
ところで、気持ちの持ちようです。
それを辛いと思いか、思わないかですね。

プロは成績や結果がすべてです。
プロセスは、重視されません。

いえいえ、プロセスを見せないようにするのがプロです。
プロセスなくして、成功はありません。
陰には見えないプロセスの積み重ねです。

見えない世界が、そこには存在しています。
現世にも、見えない世界があるんですね。
見えない積み重ねにこそ、三昧の精神が生かされます。
一日一日の積み重ねが、目標の長安への近道です。

もっと言えば、目標の長安も通過点ですね。
悟りを開いても、それでお終いではありません。
そこからが、本当のスタートなのかもしれません。

利休居士と言えば、茶の湯の大成者、茶聖として多くの方に影響を与えたご仁です。
私は、茶は嗜みませんが、頂くのは好きです。
でも、利休居士の精神世界は大変興味があります。

笑嶺宗訴(しょうれいそうきん)などの師について参禅修行を重ね、大いに悟るところがあったようで、抛筌斎宗易(ほうせんさいそうえき)という名を使われていたと聞きます。

利休(法号)居士の本名は、田中与四郎ですから、その与四郎と利休の間の「宗易(法諱)」に由来する名前です。
(因みに、父の与兵衛の台になって、千を名乗り始めたようです)

利休居士の名は、関白豊臣秀吉公が、正親町天皇に茶を献上した時の後見人として参内するにあたり勅賜された名前です。
官位もない一般庶民が、参内した上、天皇近くにはべる訳にはいきません。
古渓和尚が命名して、それを天皇から勅賜された形になっているとのことです。

話は戻って、抛筌斎、その名前の意味ですが、筌(せん)とは、魚を取る道具のことらしいです。
それを抛(ほう)ってしまう、つまり、放り捨てるという意味のようです。
大胆ですね。

すなわち、魚をすでに得てしまえば、もう魚取りの道具は要らないという意味になるようです。
言い換えると、悟りを得てしまえば、その悟りすら意識せずに忘れてしまうという深い釈になるようです。(『禅と茶の湯』有馬頼底著 春秋社 参照)

悟ってみないと、分らないことですけどね。
悟りを得ることが目的だったのか、それとも悟りを得たことを実践することが目的だったのかにも因りますね。

私が思うに、悟りの教え、私なら「妙法華経」、この教えがどんなものか、真実は分りません。
毎日経典を読むことと、その悟りの真意を得ることは違いますからね。

お釈迦さまが、かつての弟子であり、教団を二つに割った悪人・提婆達多が、過去世「阿私仙人」という仙人でありに、その仙人について悟りを得るために、王位を捨てて1000年近くも使えました。
(この時の人の寿命は長かったようです)

真実の教え「妙法華経」と教えを学びたて、王位まで捨てて使えたのです。
しかながら、することと言えば、食事の支度や水汲み、雑用、マッサージなど使用人、下男のような生活であったと聞きます。
何一つ、その教えがどんなものか、口伝は無かったようです。

しかし、その中から教えを身に付けることが出来たわけです。
「阿私仙人」という師の行き方をじっと観察して、それを実践したからに他ないと思います。

悟りの境地「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」は、言葉で言うことは出来ないものようです。
この下りは、過去のブログ・レインボーマンのところで記事にしています。

そう悟りとは、会得するものなんで、一度すれば体に染み付いた習慣のようなものなんでしょうね。
自然の摂理を知る、宇宙の法理を得るわけですから、これに反して生きることに意味がないです。

そういう意味では、利休居士のように、魚を取ればその道具は放り捨てるという「抛筌(ほうせん)」ということも辻褄が合うようにも感じます。
私には、まだまだ、ようせんことです。(今日は、ここしか笑うとこないですよ。ねー、とおるちゃん!!)

なかなか深い話になりました。
何か書いている時は、幸せです。
何か書こうという気持ちがあるときは、充実しています。
世俗から離れることが出来るような気がします。

お付き合い頂きありがとさんです。
感謝いたします。

私には、ありがたい仏縁を頂けています。
それが、日々の暮らしの中でしっかりと感じることが出来ます。
見えないけど感じる喜びもあります。
ささやかですが、幸せです。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らすことを旨としています。

今日も明日も、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、豚だけにトンチンカンな話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。