「花をのみ まつらむ人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」家隆
家の近くの花が咲いています。春ですよ。
『南方録』で取り上げられている、
三夕の歌の一つ、定家の「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」
これに比べて、新古今集の家隆の歌
「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」
を利休の茶の心髄と捉えられています。
二つともすばらしい和歌であります。茶人でもない、この普通の私には、もっと精神的な哲学的なものすら感じます。
定家卿の歌は、机上の空論、理想のイメージです。そこに定家卿は見えません。
その歌の中にはいないんです。絵画を描く定家卿は、見えてもその絵の中に定家卿はいません。
そんな寂しげで肌寒いところに実際行ったりしません。
それに比べて家隆卿の歌には、家隆卿自身が歌の中の山里にお立ちになっています。
それも「ここにほら」と扇子か何かで雪間の草を指しても微笑んでいるのが見えます。
理想と現実との両極の歌が対照的です。あくまでも素人考えで、国文学者の先生方にお叱りを受けるのは覚悟してます。でも何気にそう感じます。
家隆卿の歌には、もっと人間としての生き方を感じます。
「早く桜が咲けばいいなぁ、早く春が来るといいなぁと言うけれど、何をいってるのあなたの足元の雪の間にも新芽が咲いているじゃない。もう春はすでにやって来ているでしょう。そんなことも分からないのですか」、なんて私的な解釈をつけました。
つまり、金や名誉ばかりを求めそれを幸せと感じているけれども、ささやかな中にある幸せをそのような人にも、ほらこんなところにも幸せはある。そう知らせてやりたいと人としての生きる道を、私は家隆卿に教えて頂いたと感じます。
日々の暮らしの中に、今日一日が過ごせた。過ごさせてもらった。
生きれることに生かされてることに感謝の気持ちが必要であると痛感します。
しかし、そこは凡人。特別が普通になり、普通が当たり前に自分のよくばかり前に出てしまう。それを日々の生活の中に心の奥にいつも持ち続けるように頑張らんといけません。意識せずに感謝の気持ちを持ち続けるように精進します。
野辺に咲く花を心ゆくまでめでる気持ちのゆとりと安らぎが必要です。(写真は桜でなく梅です)