''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

幸福堂の紅白の上用饅頭を頂いて より。

今日は、朝から緊張の目覚めでしたね。
人生節目の一日となりました。

 

朝の早い時間から、郷里播州から両親がやってきます。
先様へのご挨拶ですね。
両家の顔合わせ、ご挨拶です。

 

この一年、いろいろとありました。
山あり、谷あり、峠ありです。

 

禅の言葉、禅語に「松に古今の色無し 竹に上下の節あり」と言うのがあります。
何とも不思議な禅の言葉でもあります。
当然と言えば、当然の事を言われるようですが、その意味は、大変深いです。

 

また、松も竹も縁起の良い植物の代表格でもあります。
更に、これに梅を加えると「松竹梅」古来より昔「歳寒の三友」としてめでたいモノの象徴とされてきました。

 

私には、何やら、鰻の値段表みたいですけどね。
恥ずかしながら、どれが一番高いのか、未だに分かりかねます。
ピンとこないと言うのが、正直なところです。

 

しかし、これが禅の言葉になると、意味が変わります。
仏の世界では、誰しも平等です。
現実世界では、貧富の格差や社会での格差もあるのが同然です。
どれだけ、仏の世界を問うても、この格差の現実はあるわけです。

 

竹に節があるように、人にも節があり、また社会でも、節があるのが当然です。
それは、ある意味物事の一面でもあります。
この一面だけを見れば、あまりにも世の中が詰りません。

 

その意味では、平等即差別、差別即平等です。
これも事実ですが、これだけが人間の幸せの尺度ではありません。

 

遠くに幸せを見つけるのでなく、足モノにある幸せ見つけられるのは、ある意味特殊能力ですね。
そんな能力を持てば、今あることの幸せを容易に見つけ出す事が出来ます。
もちろん、持たざる者のひがみでもあります。
でも、幸せは無くして初めて分かるものであることが多いです。

 

東日本大震災では、その日常すらどんなに幸せだったのかと、痛感されている方も多いです。
また、その日常的な幸せを今でも取り戻す事が出来ない方も多いです。
被災地を思う事なくしても、身近な幸せに見つける補助的な力が、感謝でしょうね。

 

ありがたいと思えることが、生まれて来た事ことのありがたさが、感じられる暮らしは、身分や貧富や社会の地位に左右されない事がらです。

 

ありがたいと、手を合わせられる時間こそ、何よりもかけがえのないありがたい充実した時間だと思います。

 

今日は、私にとっての竹の節の一日となりました。
ありがたいと感謝出来る一日となったように思えます。
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手土産に頂いた幸福堂の上用饅頭、早速家に帰って頂きました。
品のいい餡でした。
このこし餡は、北海道産の小豆で作られたものではないかと、推測です。
上品な甘さ控えめな餡は、時に心の奥底まで届く味でしたね。
ご馳走様でした。

 

紅白の色合いも上品で、食欲をそそります。
これなら、もう少し饅頭怖いと言いたくなります。
私は、両党使いですから、落語の「二人ぐせ」みたいに、「これで一杯呑める」とは、言えません。

 

強いて将棋で言うなら、「王手」と責められて、相手の持ち駒は、金銀飛車角と歩の詰められる寸前です。
「喜んで、参りました」と降参模様です。
空には、慧眼の法水が、上品に降っています。

 

残り少なくなた今年の日数も、まだまだ御用納めはさせてくれません。
31日の大晦日まで、仕事は続きます。
何事も、仏様のお導きのままに、上手く進むことをありがたいと、手を合わせるだけです。
ありがたいです。

 

日々の暮らしの中、感謝して暮させてもらっています。
ありがたいです。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮したいです。

 

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

 

最後まで、紅白の二色の饅頭話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げ
ます。