公儀 徒目付
内匠頭の耳の脇辺りに傷があり、緊張のあまり何度も失敗した様子が見受けられる。
徒目付が指名さけるのも、不思議であり、大抵は、藩の物頭以上の上級武士が当たると思われる。
俗に言われる「御公儀
介錯人」と称させられる役職はない。
殿中に於いて吉良上野介に斬り掛かった内匠頭は、奥州一ノ関城主田村右京太夫にお預けとした上で、公儀の命により即日(午後六時頃)切腹の刑が言い渡され、同時に赤穂浅野家は改易処された。
当日、控えの間に居た「
奏者番」の
田村右京太夫建顕(たつあき)に、浅野家と縁戚関係の有無を聞かれ、無い旨の返答を確認してから、預かりになった模様。
また、内匠頭が切腹に使用した脇差しは、田村家が用意したものであるとあるが、疑念が残る。
しかし、浅野内匠頭の場合、介錯刀も田村家所有の加賀清水が使用される筈であったとさけるが、正使・大目付の庄田下総守安利の命令で止められた為に、磯田武太夫が自分の刀で介錯をしたとの解説もある。
切腹に使用した刀は、備前長光を使用と聞くが、所有したのは、田村か?
由緒ある刀である為、刀を穢したとして研ぎ直し、鞘も新調されたと言われている。
田村家は、伊達家の一門(仙台藩2代藩主・伊達忠宗の三男を祖する)の家柄である。
田村家は、城主大名・内匠頭の庭先の
切腹により、武士の作法を弁えぬとして、伊達家と絶交される。