「漁夫生涯竹一竿」
ぎょふのしょうがいたけいっかん と読みます。そのままんです。
もともと
「山僧活計茶三畝 漁夫生涯竹一竿」と1対の禅語です。
山僧が活計(かっけい)茶三畝(さんうね)、漁夫の生涯竹一竿 と読みます。
よく茶軸に見かけます。ちょっとかっこよく感じるのはオジサンだからでしょうか? なにやら意味深に聞こえます。
和室の床の間を背に、おもむろに竿を出して磨いている。そんな図です。その後ろにこの掛け軸が見えます。
雑誌「一個人」とか「サライ」なんかに出てくる中年の哀愁のある男を美化するようなページでしょうかね。
禅の言葉、禅語にしてあっさりしすぎています。
でもそれだけに「むだ」がない。本質を述べています。飾り気がない。
山にこもった禅僧は喫茶に使うお茶の木が三畝(はたけの広さ)です。少しだけ山の畑にお茶を植えている。生きるためでなく、仏の修業のために必要なのです。普通にご飯食べた後に飲む為ではありません。珈琲とは違います。
漁師も同じ一竿だけあればそれでよい。そう意味です。
もっと深く言えば、この道以外に道はない。この道の先に目的が待っています。この道も長安(仮の仏の終着点)に通じています。その道で生きていけるというのは幸せです。
その道、いや仕事と言い換えましょう。自分のやるべき仕事が本来あるはずです。生まれながらに使命は帯びています。天命です。
それをやるためにこの世にあります。生かされているです。
この道と思える仕事に就ければ幸せです。
本業ではこの道に出会わなかった方も生きる「はげみ」や「生きがい」はあるはずです。それがあなたの本来のなすべき仕事であったのかも知れません。ボランティアしかり、社会貢献しかりです。
昨日、頂いた焼き鳥の味がまだ残っています。余韻なんでしょうか?
ただ美味かったというのではなく、「これが美味しい。これを食べて下さい。」という気構えがそう感じたのかもしれません。
手間を惜しまないこと、美味しいものを美味しくお客さんにお出しすること これだけですね。
単純でしたが、心にも舌にも記憶にも残りました。
人への「気遣い」です。これを今一度学んだ気がします。
一串一串に焼きての気持ちが、一串一串にそれを食べる者の気持ちが受け止めることが出来たか? 何度も何度も、自問自答です。その気持ちが味にも残ったのでしょうね。
仕事じっと見ていました。仕事の癖でしょうかね。人の仕事をよく見ます。それを酒のあてにして飲んでいました。大勢のお客さんに店長は一所懸命です。
お客さんの顔にも笑顔です。大人も、小さい子供さんも、焼き鳥を召し上がっていました。ニコニコです。いいときも悪いときもあるのを知っていても、こんな仕事もいいよねと内心思いました。お客さんとの距離が近いのが楽しいです。
私のペーパー料理人の心に火がついたのかもしれません。(ここは笑って下さいよ)
紙だけに燃えやすいってことですよ。
一竿も一串もかける気持ちは同じです。生きることすべてが同じなのかもしれません。
すべてが死ぬまで修業です。四六時中、24時間修業です。精一杯ベストを尽くせたか?
反省会を一人でしています。その中には、今日を精一杯過ごせてもらったことに「感謝」です。また生かせもらったことに「感謝」です。
明日ありと思うこころが仇となります。自問自答です。
ながながしたブロクにお付き合いして頂いた方に「感謝」したいです。ありがとさんです。