ランチタイムは、いろいろと悩むモノです。
何を食するのか、ささやかなことながら、昼からのやる気を左右します。
私は、麺類が好きです。
7歳児の我が娘も、麺類が大好きです。
岳父が麺類好きでしたので、DNA色濃く継承されています。
昼に何が食べたいのかと聞くと、この日は「麺」だと言いました。
とは言え、いつものように冷蔵庫と相談です。
スーパー特売の3つで98円の茹での中華麺がありました。
豚肉もありました。
野菜も適当にありましたので、これなら焼きそばでしょう。
問題は、何味にするのかです。
定番ソース味か、カレー味も、はたまた王将風の醤油味の焼そばも捨てがたいです。
多数決で決まったのは、塩焼きそばです。
嫁も私に忖度しています。
7歳児のゆうゆうは、少し不服です。
ソース味がいいと言いました。
何だか、言いましたのフレーズは、落語の「阿弥陀池(あみだがいけ)」の「阿弥陀が行けと言いました」のあの「言いました」ですね。
尼寺に強盗が追い込んで、安寿さんに諭されて、誰からそそのかされたのでしょうと言われて、誰にそそのかされたのかと聞いて、「阿弥陀が行けと言いました」と噺の中での中オチになります。
もちろん、今でもこのお寺はあります。
南北の筋に、「あみだ池筋」と言う通りが、今でもあります。
和光寺境内の北側にある阿弥陀池は、仏教伝来の際に百済から日本もたらされた仏像が、排仏により沈められた「難波の堀江」にあたるという伝承があると聞きます。
話が歴史の中に見えてきましたね。
そんな和光寺に強盗が入るはずもなく、「新聞を読め」という当時の流れが、落語の底辺にあります。
同様に、艶噺にも、このタイトルのモノがありますね。
昔の廓噺も、面白いモノがありますが、現代に使える様にするのも、演者の腕でしょうね。
落語の名作「品川心中」も廓話ですね。
遷り替えが出来ないお染さんが、独りで死のが嫌なので、誰かと心中と浮名が点けば、救われると相手を選ぶシーンは、笑えます。
私の好きな人情噺の「子別れ」も、上中下に別れる廓話のでしょう。
落語の中で、「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」は意味をぐっとします。
作者は、播磨の俳人 滝野瓢水でしたね。
亡き母の墓前に詠んだ 「さればとて石にふとんも着せられず」も好きですね。
放蕩三昧の匂いがしますよね。
今日は、母の日か?
母は、80歳過ぎですが、健在です。
我が家も、落語の「子別れ」にならないように、家族の仲良くしたいものです。
そもそも、私はそんな事はしないと思います。
その油断が、ダメかもしれません。
今の暮らしに満足していますので、危険を侵す必要がないと言うのが、信条でしょう。
どこから寄り道していたかと言えば、「言いました」ですね。
私が、塩焼きそばにしようと言いました。
作るのは、私です。
大きな中華鍋で、中華麺の両面に焦げ目を付けて、鍋から取り出して、具材を炒めます。
そこに炒めた中華麺を3つ入れて、酒をフリフり、コショウをフリフリして、創味のシャンタンと塩味の味を入れて、炒め上げます。
お約束の紅ショウガと刻んだネギを天に盛ります。
色合いも大事です。
ソース焼きそばみたいに、色はない分、味も濃くし過ぎないのが、美味しく仕上げる秘訣です。
味が濃いと、娘が喉が渇いたと言い出します。
娘も、どうやら、ソース味より美味しかったみたいで、一気に完食していました。
また、父が作ってと言いました。
ありがたいことです。
親子3人のささやかな暮しに感謝して暮させて貰っています。
ありがたいことです。
ささやかな「よかった」を探せて暮させてもらっています。
ありがたいことです。
日々の暮らしの中、心の三毒を廃し、平穏無事に暮らしたいです。
神仏に手を合わせて、感謝して暮らさせてもらっています。
ありがたいと感謝です。