''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

吉良の殿様は名君ですよ。

今日は天皇陛下の誕生日です。国民の祝日となり、のんびりとクリスマスの準備や師走の用事にと忙しいことです。天皇陛下の体調も万全に回復されますことをお祈りします。

今年もあとわずかです。当然この12月も残り少なくなりました。この12月はサブタイトルに忠臣蔵を持って来ました。残りわずかながらも書き記したいと思います。

吉良の殿様は大変な名君として知られています。どうしても忠臣蔵では勧善懲悪から「悪役」(ヒール)です。愛知県吉良町周辺に領地がありました。また、今の群馬と栃木の碓氷峠あたりに飛び地もありました。総石高4200石の旗本です。

吉良家は、足利の一族で足利長氏が三河の吉良荘に領地を有したことから、吉良の名を使っています。
時代劇では、吉良の仁吉(にきち)がここの出身ですね。
なるほど一人「へぇ」を押しています。

もちろん、足利は正当な源氏の血筋です。ですから吉良も源氏の血を引く正当な源氏の一族です。石高は大名以下ですが、身分は大大名並みです。

高家筆頭の格式です。高家とは朝廷と交渉人と言えばわかりやすいですね。
朝廷との付き合いには作法や知識が必要とされますから、こうしたことに長けていたことになります。
高家も吉良家だけでなく品川や織田といった10数家が名を連ねています。

何ゆえその中でも筆頭なのか、面白い話があります。真偽の程はわかりません。
徳川家康は信長、秀吉と天下をほぼ治めた英雄の失敗を研究しています。
自分がほしいのは、源頼朝以来の武家の政治、つまり幕府を作ることに目標を定めます。しかし、幕府を開く征夷大将軍は、武家の棟梁の象徴です。
徳川はもちろん源氏の血筋ではありません。
三河の豪族です。これは確かだと思います。

しかし、源氏の長者を名乗っています。源氏の血筋であることが必要です。ですから源氏の血筋を手に入れたのです。吉良家からです。

吉良家が証人です。「徳川殿は源氏の一族です」と言う家系図を手に入れたのです。ですから特別な功績はなくても、大身旗本として幕府では地位が高いのです。

この説はいかがでしょう。でも幕府は何度も家の血筋を確かめる書状を提出させています。都合が悪くないようにするためでしょうね。
http://www.town.kira.lg.jp/kanko/pub/miru/kirakou/p_kirakou.jpg
吉良上野介義央は大変な名君として地元では人気の殿様です。お膝元では「忠臣蔵」は見ないし上演されないらしいです。

吉良の殿様は、領地を馬に乗って何度も視察されているらしいです。たぶん和やかに下々の者とも話を交わされたと思います。この時代にあっては大変珍しいことです。

この吉良の殿様が行った「黄金堤」や「富田新田」も今も残っているようです。すべて私費ですからね。上杉家から支援でしょう。

http://www.town.kira.lg.jp/kanko/pub/miru/kirakou/index.html
↑ 吉良町のホームページです。

あまり知られていませんが、浅野内匠頭の勅使饗応役の大役は、2回目です。
17歳の時に勤めています。その時の御指南役・高家も同じく吉良上野介です。
前回もお世話になった言わば先生です。
そのときは世間の常識を弁えた江戸の家老が根回しですよ。

今回、お役が決まったときのご挨拶のお使い物が「絹の反物」と「鰹節」であったとも言われますね。真偽はわかりません。
「プリン」と「チョコ」とは違います。

また、刃傷の原因も「吉良のいじめ」とか「塩の因縁」とかいろいろです。
吉良の領地でも塩が取れます。赤穂も塩が有名です。質は比べ物にはなりません。
吉良家から赤穂の浅野家に塩の指南の問い合わせを断ったとも言います。
この因縁ですかね。

この時代目上の人に金品やお品を贈るのは礼儀であったとも言われます。
現代社会にも通じますね。付け届けは必要枠であると思います。潤滑油ですね。

刃傷の原因は、いろいろな物の本から見てもよくわからないと言うことです。
私的には、浅野内匠頭の個人的な要因が大きいと思います。
端的に言えば短気でカッとなると、見境のつかなくなる性格だったと考えればすべては納得できます。

松の廊下で刀を抜けば、お家は取り潰しは知っている常識です。
あなた一人じゃなく、大勢の家臣と家族の生活がかかっています。

大抵の方ならどんなことがあっても我慢しますよ。
サラリーマンはそんなものです。
クレームが有ろうとその場を治めるために詫びます。
逆切れはしません。

それが大人です。その意味で精神が弱かったのでしょう。

「風さそう 花よりもなほ われはまた 春の名残(なごり)を いかにとかせむ」

浅野内匠頭の辞世の句(死ぬ最後の句)ですが、これも証拠がありません。
立会人の記録だけです。あまりにも出来すぎの句です。

私ならお前が「いかにとかせん」と言ってやりたいです。責任者としては最悪です。この人のために、大勢の人の人生が狂いました。

吉良上野介は、茶道を千宗旦に学び卜一(ぼくいち)とも言ったようです。
和歌、書に長けていました。

「雨雲は今宵の空にかかれども 晴れゆくままに出ずる月影」
「名にしおう今夜の空の月影は わきていとわんうき雲もなし」

和歌から見れば、なんとも聡明な感じです。(『赤穂浪士討入り以後』菊村紀彦著 人物往来社 参照)
私と同じく、月を見て、空を見て、季節を感じるようです。風流人ですね。
侘び寂びがありそうですね。歌から見れば好感が得られます。

ちなみに討入り成功後に大石内蔵助が詠んだ歌に

「あら楽や思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし」

と言うのがあります。どちらかと言うと吉良の殿様と馬が合いそうですね。

今年のNHK大河ドラマ篤姫』で篤姫が言いました。
「一方のみを聞いて、さたする事なかれ」
この意味は大きいです。どちらにも良いことも悪いこともあります。
一方だけが悪いのではないと思います。
双方の言い分を聞くことが大切ですね。

両方のことを書くことに気をつけました。
忠臣蔵はドラマや芝居にしては面白いですが、真実は方は判りません。
たぶん、吉良の殿様が最初から最後まで訳が解らないままで、黄泉の旅路に向かわれたのではないかと、本当にそう思っています。

歴史からいろいろと学べます。
ありがたいことです。学べる喜びに感謝です。

個人的考えです。諸説ございましょうが、ご容赦ください。

最後までマニアックな言い分にお付き合い下さいましてありがとうさんです。
途中リタイヤの方ももう少し読みやすくするように努力いたします。
ありがとさんです。