''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

鶴ノハシ花入

花入れであるが、花が入っていない。
常識を破ったことです。
口の所まで水が入れてある。
本の解説によれば、みなさんの頭の中で想像した花を生けて下さいと言うような意味らしい。
(『別冊太陽 千利休平凡社)

『南方録』の茶席の花について書かれているように、小座敷の花は一色を一枝か二枝軽く生けるのが良いと言います。
「鶴ノ一声(つるのひとこえ)」には、水仙を一輪か二輪、軽く生けているとの資料もある旨が記載されています。

上記『別冊太陽 千利休』では、ここに紹介する「鶴ノハシ花入」は、利休の茶会にも出てくる「鶴一声(つるのひとこえ)」とは別物らしいのです。
同じように「鶴ノ嘴(つるのくちばし)」というのも記録には出てきます。

それらが同一のものと解釈されている書物もあります。
本当のことは、はっきりしていないのが本当のようです。
ちなみに「鶴ノハシ花入」は明暦の大火で焼失した旨が書かれてありました。

難しいことは専門家の先生方にお任せします。
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しかし、鶴のしゅっとした姿には「美」を感じます。
花の姿もしゅっとした花の生け方は、きれいと感じます。

私は花器に花も生けたことはありません。
藤四郎(とうしろう)です。お茶の心得もありません。

写真は、京都の五条の大橋付近にある街中に茶道具関係の店先です。
私が作った落款の石材を買ったお店近くです。

何とも「鶴のイメージ」と重なり合います。
茶人利休もこのような花の取り合わせの形をイメージしたかのしれません。
その形に「鶴」と名づけたのやもしれません。
でも、花の美しさは引き立ちます。

バラの花束も確かに綺麗です。
それとは違った清楚な、それでいて芯のある力強い美しさです。
私が思った鶴のイメージです。

そこはかとなく、侘びや寂びを感じるように思えます。
うっすらと後ろに写っているのは、花の精ではありません。気のせいです。
お見苦しいです。写真技術の未熟を恥じます。
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茶道具も展示されています。
志野の茶碗がメインですね。
料理屋さんのご飯茶碗に同じような物が使われていますよね。
四角い杉板や漆板が蓋(ふた)になっていたりします。

薄汚れた白というのか、うっすら茶色というのか、薄いオレンジ色というのか、この色合いが、お茶の緑とマッチします。
センスがいいです。品のいい取り合わせに感じます。

志野茶碗にもいろいろあります。
基本的にはもう少し白っぽいものが多いです。
しかし、赤いもの・紅志野(べにしの)なんて呼ばれます。
それにネズミ色の鼠志野(ねずみしの)なんていうのもあります。
鼠志野は、遠州好み(小堀遠州好み)です。

かの美食家・北大路魯山人も、この志野焼きをこよなく愛しました。もちろん陶芸家ですから、志野焼の作品も多いです。織部焼もこよなく愛し作品も多いです。織部志野の焼物に関して、現代で言う人間国宝認定の内々の申し出もありました。こちらはお断りしたと聞きます。それだけ思い入れがあったようです。

茶人には、こうした色の好みがそれぞれ強くあります。
私は色だけでなく、鶴と言うような形も、好みが強いと思います。
これがこういうのが「ザ・侘び」「ザ・寂び」という世界観というか、美意識があるのでしょうね。

形ないものに、形を付けるのは難しいです。
仏の世界にも通じているような異次元、宇宙を感じます。

京都にはこうした拵え見てもらうように店先や個人宅のガラスが張られています。
情緒があります。
当然無料です。文化の高さに驚かされます。

高価な花器や花瓶も、花を入れて初めて用をなします。
もし出来ないのなら、冒頭のように想像で花を浮かべるといいですね。

日々の生活疲れたとき、花を生けて見てはどうでしょう。
花器は何でもいいですよ。実際に生けなくても、心の中で花器と花を思い浮かべる。

これも花の楽しみ方です。
いつでもどこでも一人悦に入れます。
目を閉じた心の空間が茶室ではないかと思います。

ささやかに花を十二分に楽しめました。「ありがとさんです」
ささやかな「よかった」こんなところにも落ちていましたね。
ありがたいと感謝の気持ちを添えるとあなたの花も美しいです。

最後まで、酔狂人にお付き合い下さいましてありがとさんです。