''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

ゼロから見える世界。

雨と地震の被害のニュースが日本中駆け巡っています。
一日も早い復旧を祈るばかりです。

雨の多かった感がありますが、やはり夏です。
暑いです。
ブログタイトル通り、私は痛風です。

水分の補給が特に必要です。
日に3リットル近く水分を取っています。

塩分も多い目に摂取しています。
かといって水ばかり、お茶ばかりではなかなか水分摂取も辛いところもあります。

ジュースはどうもいけません。
今年は、三ツ矢サイダーのゼロキロカロリーの炭酸にはまっています。
炭酸中毒者には、なくてはならない代物ですね。

あぶったりしなくても、そのまま飲めますからね。
ストローなんか使わないで、そのままコップに入れてがぶ飲みです。
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しかし、あいにくに昨日はこの商品がなかったので、コカコーラゼロで代用です。
こちらも以前から飲んでいます。
コカコーラのライトやダイエットに比べると、普通のコカコーラにまだ近いですからね。
高炭酸、あの独特の味と納得できます。

子供の頃飲んだ、今よりもっと高炭酸で薬品くさい味が懐かしいです。
咽が詰まるような炭酸の咽の傷みすら感じました。

ゼロはインドの発見です。偉大な発見です。

日本でも和算と呼ばれる日本独自の計算方法がありました。
江戸の関孝和や京都の田中由真(たなかよしざね)を排出して行きます。
特に江戸の関孝和は円周率を11桁まで計算していたと言います。
この時点では西洋よりはるかに上の次元をいっていたようです。

微分積分の分野には及ばなかったようですね。
しかし、その違いの大きなところにゼロの存在があると考えます。
日本の和の計算では0を表記しなくても数が存在します。

例えば、109,500の数は、十万九千五百です。千や百や十の世界です。
今と違って0は並びません。

数において無いという感覚を数に表記することは大発見です。
インド人もびっくりです。
さすが東洋の哲学の国です。今のITの国ですからね。

月までの正確な距離は計算出来ても、国民の人数は計算できない不思議な国とも言えます。
人口が多いと言うのは、すごい偉人を輩出することが出来ると言うことでもあるよすに思えます。

哲学的なことを言えば、有は無があって初めて存在する言葉の概念です。
無も同じです。有と無は一対の関係にあるように思えます。

有から無は発生しても、無から有は発生しないと考えられます。
無いところから、物は存在しません。

でも、宇宙は無の状態から、ビックバーンを起こし、有を生じ、膨張して、頂点を越えると、今度は縮小して無に戻ると言うことですからね。

人は生まれて死ぬ。これは例外のない事実です。
遅いか早いかそれだけです。
死んでどうなるのか?

仏教的な考えに立つと、輪廻します。
現世の罪の重軽で来世も変わってきます。
この現世は修行の場という考えです。
最終目的はこの輪廻からの解脱(げだつ)ということになります。

こう考えると有無というのは、ものの存在自体のことでなく、ものの見え方、もの形状の有無に他なりません。

今見えているのか見えていないのかだけです。
ものは存在しています。
そう人の魂も同じではないかと考えます。

人として入れ物は、肉体ですから、生物としての限界が来れば、死という形態に見えます。
しかし、その内容物である魂は見えない世界で存在して、肉体との縁を待ちます。

魂と肉体の合体こそが、生命の誕生であると言えます。
この合体を掌るのは、天です。
私は仏教徒ですから、仏の世界の天ということになります。

天の作業にも完璧はないと考えます。
コーラの瓶に、コーヒーも入ることもある。
それも数奇なご縁です。
入れ物である肉体は男でも、魂は女と言うこともあるはずです。

古い書物の『日本霊異記』にも不思議な肉体と魂の話がいくつもあります。
因果と応報です。
現世の罪が、来世に関わります。
現世にあっても同じです。
自分のやったことが最後に自分に掛かって来ます。
自己責任とも言えます。

分からなければ何をやってもいいと言うのは、違う様に思えます。
天は見ていますからね。
最後に自分に振り掛かります。
来世に降りかかるように思えます。

やった罪が「1000」でも見える表記がただ「0」というだけです。
そのゼロが本当のゼロなのか、見えないという印のゼロなのか分かりませんからね。

「0」は見せかけの数です。
今あるか無い、見えるか見えないかの違いです。
じっと凝視して、それが本物のゼロか否かを判別する必要があると感じています。

今ある幸せを「100」とすると、100ある幸せがそこにあります。
隣の人の幸せ数が「120」なら不幸せに感じますか?

「100」あることに満足する必要があると感じます。
あくまでも見せかけの表示の数です。

「100」には100の幸せが、「1000」には1000の幸せがあるはずです。
うれしい気持ちに大差は無いように感じます。

そう有るか無いかの違いではありません。
有ると有るの違いです。
相対的な違いです。

私たちは相対感の世界に住んでいます。
絶対感の仏の世界には住めるものではありません。

何かに比べることに疲れます。
今生かされていることのありがたいと感じれば、ぶれた自分の存在も捕捉することが出来ます。

どんなときにあっても「よかった」を見つけることが幸せを感じるキーですね。
今日も一日静かに過ごせることに感謝したいです。
今日も生かされています。

最後までお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。