''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

表彰の恩恵と図書カード

世間では、政権交代と世情、いろいろ渦巻いております。
私の仕事場でも、大きな影響が生じています。

 

雨降るときもあり、風吹くときもあるとあるがままを受け止めております。
なんくるないさ沖縄人のよく口にする言葉が、脳裏に浮かびます。

 

何か温暖で暖かい地方の人がいうといい加減にも聞こえます。
時間は自由、約束の時間はあってないが如くです。
そんな中にあって「なんくるないさ」はあいまいにも感じます。

 

しかし、天の前ではどうしようもないのだから、運を天に任せると受け止めれば、物事の筋道が大きく変ります。
天命に、人は勝てません。

 

それ以来、意味ある重い言葉と感じています。
こちらも仏法にも通じる至りの言葉ですね。

 

赤塚不二夫の「これでいいのだ」も、似た仏法にも通じる深い極みの言葉でもあると感じています。

 

世間がどうであろうと、自己の身に降りかかる出来事は、天の定めと捉え、あるがまま前の道を進むだけです。
そこに道がある。
それを進むだけです。

 

そう「これでいいのだ」ですね。
深い言葉です。

 

すべてをギャグにすべてを笑いに変換できることは凄いです。
絶対感に対する笑いです。
悪いことがあろうと、すべての物事に、それ以上の笑いで吹き飛ばす。
「これでいいのだ」ですね。

 

ですから、あるがままを受け止めます。
そんな最中上司から呼ばれました。

 

柳生の剣の修業をされたK支配人がお呼びです。
寶蔵院流の槍術の心得も備えられています。
気は抜きません。いつ打ち込まれるか分かりません。

 

「はんこが欲しい」と申し出です。
早期退職の印かと思いきや、衛生管理優良店の表彰に伴う図書カードの受取の印でした。

 

衛生管理の優良店には、そこに属する者に500円の図書カードが頂けれるようです。
初めて頂いたような気がします。
ありがたいことです。
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仕事場を見渡します。
お世辞にもきれいとは言えません。
私も含め、きれいに使うように気をつけています。

 

その中にあっても、どこにでもいる「獅子身中の虫」(しし しんちゅうの むし)が事務所にもいます。
デスクもゴミだらけです。
食べた弁当も片付けません。

 

仕事場にはいろんな人が出入りします。
人の世にあっては仕方ないことです。
人によって正義は違います。

 

「それがあたなの正義ですか?」と尋ねたくなります。
あなたは、幸せでも、誰かが犠牲になっていませんか?
散らかす方と片付ける方、散らかす方はいつも散らかしたまま、片付ける方は誰かの始末をする。
意味のないことです。

 

散らかすだけの方は幸せです。
周りに気使いせずに済むのですからね。
周りの人が嫌な思いをしていることに気付きません。
幸せです。

 

でも、本当の幸せではありません。
いつか自分の身に降りかかります。

 

その時こういう方は他人のせいにします。
あなたの正義の代償です。
因果応報です。

 

あなたの蒔いた種が不幸となって降り注ぎます。
あなたの頭上だけで降り注ぎます。

 

落語に「天災」という噺があります。
今の二代目桂ざこばが、この噺にはぴったりです。

 

長屋暮らしの短気で喧嘩っ早い八五郎が主人公です。
夫婦喧嘩をしては嫁を殴り、止めに入った実の母にまで暴力です。

 

ここで助け舟を出すのは、町内のご隠居と決まっています。
ご隠居は「紅羅坊奈丸(べにらぼう・なまる、名丸とも)」という「心学」の先生を紹介します

 

野原で雨が降ったら、往来で丁稚が蒔いた水にかかったら、長屋で頭に瓦が落ちてきたらと、例えをあげて諭すが、答えは決まって責任を他人に転化する始末です。
こうした人は多いです。

 

奈丸先生は、「天災」と思いなさいという心学の教えを説きます。
天災だと思ってあきらめなさいと説きます。
なるほど当然です。そうしたこともあって当然です。
いいことばかりではありませんからね。

 

天災という言葉を覚えた八五郎は、生半可に人(熊さん)にこれを説こうとします。
心学の意味すら分からない人に説けるはずもなく、訳の分からん方に話が進みます。
この辺が演者の腕でです。

 

さげは、「これもすべて天のしたこと、『天災』と思って諦めなさい。
天とは喧嘩できないから」と言う言葉に「天災じゃない。うちは『先妻』でもめてるんだ」

 

せんさい違いの言葉遊びです。(『ウィキペディアWikipedia)』参照)
♪チャンリン チャンリン デン デン

 

天災は忘れたことにやってくるとも言います。
わが身の起こした因縁は忘れた頃にやって来ます。

 

身を律して、正しい行いこそ、わが身を守れます。
正しい考えも、わが身を守れります。

 

私は仏教徒とですので、仏縁を頂いていると思っています。
それぞれの主のご縁も同じと考えます。
自分に恥じない行為は必ず見守ってくださいます。

 

今はよくないように思えても、必ず救いの手があるはずです。
いつも言うように、見返りは求めてはいけません。

 

仏縁を頂いたことに感謝です。
多くの方とよいご縁を頂けたことに感謝です。
それだけです。

 

神や仏はお願い箱ではありません。
金銭の多寡は別にしておいて、今あることに、元気で過ごせさせて頂いていることに感謝です。

 

それが幸せと感じられると、人はいつも幸せです。
ささやかな幸せが落ちています。
私はその幸せを拾えことが出来ます。
ありがたいです。

 

最後までつたない話にお付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。