''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

謎学の行方。

謎学というと、
JTカルチャードキュメンタリー 番組『TVムック・謎学の旅』思い出します。
日本たばこ産業JT)の提供で、日本テレビ系列で金曜日の深夜に放送されていましたね。
何となく、謎学というところに、意外性があるところが面白いです。

記憶に残っているのは、のこぎりの話です。
日本ののこぎりは、引く事が多いです。
しかし、西洋のはあくまで押しののこぎりです。

日本も江戸時代までは、大きな長いのこぎりを二人かがりで、大木から板を切り出していましたね。
広重などの浮世絵にそうしたシーンを見ることが出来ます。

奈良時代から、お寺や塔の普請にこうした大きなのこぎりが登場します。
しかし、江戸期から、大工というと道具箱を肩に掲げて、仕事場に行くシーンを見かけます。

細かい細工には押しののこぎりでなく、引きののこぎりが便利です。
日本人は、こうした手先の器用な民族です。
職人向きの民族です。

しかし、大きなのこぎりがどうして道具箱に入るような形になったのか、長いのこぎりが途中で折れたという仮説のもとに話が進みます。

実際のこぎりを作る過程では、長いのこぎりを作って、真ん中で二つに折って作ります。
その方が、率は良いからです。
そのプロセスも、押切ののこぎりで、手引きの小さいのこぎりに変わって、より細かい細工が出来るようになったと考えられます。

まことに道理にあった解説です。
テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』、『幸楽』の従業員役の岡本信人さんであったと記憶しています。

このようにどうでも良いことながら、「へぇー」と思うことは多いです。
それが謎学なんですね。

今月のサブタイトルとして「忠臣蔵」です。
この忠臣蔵にも、わからないことがいっぱいです。

そんなことのために多くの謎学の本が出版されています。
私もいろいろと持っています。
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そもそも、何が原因で事件が起きたのか、不明です。
当事者の話を聞くことなく、即日切腹です。
今で言うなら、事件当日、現行犯逮捕、取調べ、判決の言渡し、刑の執行です。
大きな事件なら、10年20年を要する日数を1日で実行ですからね。

事件が不明なのは明らかです。
これによって、多くの家臣が翻弄します。
会社の倒産と一緒ですからね。

事件についても、判らずじまいです。
これがすべての原因です。

ですから、その因縁が、300年経っても、ドラマに映画にとなります。
吉良の殿様の「悪」、浅野の「善」です。

それに命を掛けて実行した内蔵助と46人です。
やりたくはなかったという感じが、残っていますね。
しかし、やりたくはなかったが、正義を示した。

正義とは、相手の吉良の首ではありません。
公儀に対する、世間に対する、自分たちの態度を表明した。
それに尽きると思います。
全員がそうであったとは思いませんがね。

理不尽を理不尽として正す。
それだけの一年であったと思います。
責任の重さを感じます。

事件がなけば、歴史に名を残すこともなかった偉人です。
能ある鷹も、爪を隠したままですからね。
世間にはこうした偉人がたくさんおいてです。

時代が、時が、人を変えもしますし、必要とします。
でも、いつあるかわからないです。

いつも必要とされるか判らないです。
その為、修練は日々の中でやらないといけません。
そう思います。

自分と向き合う時間ではないかと思います。
自分というモノがあるかないか、ではないかと思います。

禅の言葉、禅語に、「南を向いて北斗を見る」というのがあります。
南を向いて、北にある北斗七星は見ることか出来ません。
鏡を使って、何てことではないです。

気持ちの上での話です。
常に羅針盤の針のように、向かうとする目的であるものを見定める。
それが、天命の羅針盤ではないでしょうかね。

何かのために生かされています。
生きているわけでなく、生かされています。
何かの力で生かされています。
私の場合には、仏様でしたね。

それを常に意識して、生きています。
仏法と言っても、魔法ではありません。
仏様や神様にお願いして、大金持ちになりたいと言ってもかなえては下さいません。
それが必要とすれば、そうなるはずです。

しかし、今大金を得ても、使う先には予定がありません。
家を買う、車を買う、それはありでしょうね。
でも、あまり今の所から遠くにうつる気もないですし、近くに手頃な家や土地も売りに出ていません。

車も置く駐車場もありません。
遠くに出かける時間もなかなかありません。
すべてに亘って、今その大金を得る時期ではないと言うことですね。

でしたら、もっと違うことを祈ります。
平穏無事に一日すごせますようにとね。
幸せになれますようにとね。

これなら、毎日感じています。
ありがたいです。

腹立たしいことは、多いです。
イライラすることも多いです。

しかし、家の近所の花を見て、「きれい」と思える心のゆとりも、月を見て「きれい」と思える一時の時間もあります。

深夜の帰宅に、晩酌が付きます。
ありがたいと言わずして、何が幸せです。
ささやかに幸せにありがたいと、感謝です。

その積み重ねです。
日々の生活の中にこそ、幸せはあると思います。
こう考えられることが、仏縁かも知れません。

休日の夕餉に、「ふぐ」が食べたいと願えば、そのくらいのプチ宝くじはあたかもしれませんし、小遣いで買えと言われるかもしれません。
トラふぐがだめなら、サバふぐにしておけと言われます。

生がだけなら、一夜干しでも、これなら十分に夕餉に出来ます。
いつもの夕餉の予算でふぐが食べられます。
納得です。

これも健康であるがゆえに、こんな贅沢も言えます。
そう思うとありがたいです。

要するに、相対的なモノの考え方が、仏法の教えではないかと感じています。
豪邸で、豪華な食事が、贅沢ではありません。

健康で、食べたいものが食べられる。
美味しいお酒が頂ける、これが私の幸せです。

そのためには、仕事も必要です。
毎日遊んでいては、晩酌が美味しくありません。
イライラして、愚痴を言いながら、呑まないとこれまた楽しくないです。

そうした日々の中に幸せは落ちています。
それも無償ですからね。

拾うか、拾わないか、それはあなた次第です。
見つけられるか、見つけられないかも、あたな次第です。

感謝という下敷きを通して見ると、私には見えます。
ありがたいです。

今日も一日平穏無事で過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、押したり引いたりの長い、謎だけの話にお付き合い下さいまして、こころよりお礼申し上げます。