''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

端午の節句 藤森神社の神輿巡行と武者行列が、通りを進む より。

今日は、端午の節句子供の日でもあります。
やはり、この時期になると食べたなるのが、ちまきや柏餅です。
郷里播州では、ちまきでなく、柏餅をよく食べます。

♪柱の傷は おととしの5月5日の背比べ ちまき食べ食べ兄さんが計ってくれた背の丈~

あの歌でした聞いた事がなかったちまきも、近くの菓子司で見かけます。
でも、高いですから、食べるのは、やはり柏餅です。
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伏見の和菓子の名店・栄泉堂の柏餅です。
奥の柏の色が違うのが、白味噌の餡です。
手前左は、こし餡で、手前右の赤いは、つぶ餡です。

値段も一つ150円と手頃です。
上品な餡の加減です。
少し柔らかいと感じられますが、スーパーで3つ198円の柏餅とは違います。

この名店の一番人気と言えば、「みたらしだんご」です。
私も大好きです。
第23回全国菓子博で、この「みたらしだんご」で、金賞牌受領しています。
最近では、2008年の姫路の菓子博でも、「深草雀」で金賞受賞の老舗の技をお持ちです。

どれを食べても、合格点だと思います。
隠れた人気商品には、私の大好きなお赤飯を上げますね。
今日は、端午の節句ですから、お赤飯でお祝いするお家もあるかもしれません。
この辺りでは、やはりお祭りと言えば、さば寿司が多いと思います。
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先ほど、武者行列が過ぎました。
甲冑に身を固めた氏子さんが、武者侍に扮装して、行列をします。
なかなか勇ましいです。
その後は、お神輿の巡行と続きます。
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一日かかっての行事が続きます。
昼からは、駈馬神事が行われます。
神社の中を、馬が駈けます。
菖蒲の花が、男の子を災いから守ってくれます。

これが転じて、菖蒲が勝負の神様になって、且つ、駈け馬が掛馬、勝馬の勝負の神様になって行きましたので、競馬関係者の参拝も多いです。
もともと、藤森神社は、武運長久の神様でも、学問の神様でもあります。
勝負に違いはあれど、勝つことに意味があるとも言えます。

どうも世の中は、参加する事に意義がある風潮にあります。
それもいい事ですが、勝負には、はっきりとして結果が出来ます。
子供に勝負の結果を求めないくせに、受験や何かに付けて、それを求めます。
建前と本音の二重の基準が、子供たちの将来を曇らせています。

現実と言うものは、厳しいですからね。
勝者と敗者は、全く別物です。
ですが、敗者も、続ければ、いすれ勝者になるチャンスもあります。
それも、教える必要があります。
「継続は力なり」です。

アスリートでも、それを証明してくれる方が多いです。
甲子園に出たことがなくても、プロで活躍する方も多いです。
無名の選手が、一躍トップスターになることもよくあります。

今までは、たまたま、運がよくなかった。
でも、辞めず続けた結果です。

敗者は、辞めなければ、いずれ勝者になることもあります。
うさぎと亀の物語と同じです。
それも、大変重要なことです。

発明家エジソンと言えば、子供でも知っている天才です。
そのエジソンの名言に「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」と言うのがありますね。

誰もが、一度は聞いたことのあるこの名言! ところが、エジソンが言いたかったのは、「1%のひらめきがあれば、99パーセントの無駄な努力をしなくてもよい」との誤訳だけと言われています。
晩年になって、記者が努力を強調した結果、書き換えられた名言とも言われているようです。

何か努力する気がなくなったと言えるかもしれません。
いえいえ、そんなことはありません。
天才のひらめきは、凄いです。

でも、凡夫のひらめきも捨てた物ではありません。
数撃ちゃ当るの喩えもあります。

その撃つ球を打ち続けないと確立は良くないです。
つまり、打ち続ける回数が多いほど、勝者の確立に近づきます。

これなら、天才が10回なら、凡夫の私は10万回撃ちます。
当る確立は1万倍です。
これなら、私のような凡夫にも、あたるような気もします。
やはり、継続は力です。

無意味な記事を5年近く毎日書いています。
よく聞かれることに、よく毎日それだけ書くことがありますねって事です。
書くことは、何でもいいんです。

世界に自分の意見が発表できます。
それだけでも、嬉しいです。
日々の暮らしの中で、ささやかな幸せを見つける術が、ネットで探す事も出来ます。

違うと言われてもいいんです。
何事も実践の中で、会得出来ます。
仏の教え、妙法華経の妙義を会得することは困難です。

でも、人の営みの中で、仏の世界観の理に適ったことを会得する。
それが悟りの道かもしれません。
法華経を幾ら読んでも、それだけでは、その真理を会得出来ません。
日々の生活の中に、隠されている実践が必要なんです。

今日は、5月5日の端午の節句であると同時に、「六祭日」でもあります。
人が犯した罪科を懺悔する日でもあると聞きます。
仏の教えには、理があります。
人の常識とは、違う理です。

この世は、常に空です。
仮の姿なんです。
三世と言うものを考えないと、この一連の輪廻を知りえる事は出来ません。

過去世、現世、来世、繋がっています。
現世は、過去世に影響されるのです。
もちろん、来世も現世に影響されます。

空は、縁起だと言う事が出来ます。
空の方が、広い定義です。
過去世からの悪縁を絶ち、現世で来世に繋がる良縁を結ぶ、これが現世の修行です。
仏の縁で、悪い縁を断ち切り、いい縁を結ばせてもらいます。

一寸先は、闇です。
それを、足元を照らして頂けるのが、仏のみ教えだと感じています。
こっちこっちと、案内して下さいます。

この世は、危険がいっぱいです。
でも、観音様のお力を借りて、危険の方には、向わないようにして下さいます。
これも、仏の導きです。

毎日、お地蔵様に手を合わせています。
ありがたいと感謝して暮らせることは、何よりありがたいです。

幸せは、自分の外にあるのでなく、自分の内にあります。
何かに比べて、幸せと感じるのでなく、自分の中で、ありがたいと感じる気持ちの中に、幸せがあります。

社会的な名誉や地位や金銭の有無ではありません。
あればあれでいいし、なければないでいいです。
もちろん、私のような貧乏人が言っても、説得力はありません。

幸せは、人に見せびらかすモノではありません。
ありがたいと、感じる気持ちの中にあります。
要するに心の持ちようです。
心は、外に表す事が出来ません。

要するに、妙法華経の教典と同じです。
自分で会得しないことには、自分の物に出来ません。
見えない妙の世界があって、初めて真理がはっきりしてきます。
見える世界の法の世界と、見えない世界の妙の世界、二つの表裏一体の関係に真理が存在します。

人の生活は、思い通りには行かないです。
それが普通です。
それは、自分の外に対して言う言い分です。
同時に、自分の内に対して言う言い分もあります。

心の三毒が、自分の気持ちを迷走されます。
その心の三毒を取り払えば、大抵のことは、解決出来ます。
それだけです。

簡単に言えば、欲、怒り、愚痴、がネガチィブな心を支配しています。
これを見て、ありがたいと感じ、あれを見て嬉しいと思えば、心はいつも平穏です。

この平穏を知りえる事が、自分を幸せにしてくれます。
その平穏はどこにあるのか、自分の生活の目線を下げれば幾らでも見えてくると思います。

朝起きて、晴れていた。
ありがたいと感じられます。
朝起きて、雨が降っていた。
恵みの雨だ、ありがたいと感じられます。

まさしく日々是好日かもしれません。
自然も含めて出来事は同じです。
それをどのようにすれば、幸せに感じられるのか、でしょうね。
不幸な事もあります。

事故にあって怪我をしたら、大怪我や死亡事故に繋がらなくて良かったと思えばいいだけです。
家の鍵がどうしても見つからず、遅刻しそうになります。
でも、このいつもの時間に出勤していれば、交通事故などの災難に遭遇していたかもしれません。
それを仏さまが、少しだけ時間をずらして頂けたと思うようにしています。

少し時間を空けて、手を唱えて観音様の名を唱えると、足元に鍵が落ちています。
さっき見たと思ったけど、見当らなかったはずだったのにです。
常に、仏様の仏縁が、いい方向に結びつけて下さいます。

さっきまで、大雨だったのに、家を出る頃には、私の見える天に太陽が見えます。
いつも、太陽の日差しを私に向けて下っているように感じます。

ありがたいことです。
偶然かもしれません。
でも、偶然の偶然は、それはまさに必然です。

そう考えると、すべてがハッピーに感じますよね。
そういう暮らしを出来るように、常に心の三毒を廃して、平穏に暮らしたいです。
それが、私のささやかな願いです。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁に感謝して暮らさせて貰っています。

心の三毒を廃し、心静かに安穏にくらしたいです。

今日も一日、私も世の中も、平穏無事に過ごせますように、祈るばかりです。

最後まで、神仏に繋がる長い行列の話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。