''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

7&i(セブンイレブン)のプライベート商品 電球型蛍光ランプで、エコ暮らし より。

朝の豪雨に、朝からズブ濡れになった次第です。
携帯電話には、すでに豪雨の予報メールが入っていました。
的確に当たりますので、当然それを前提に話を進めます。

少し時間を早めて、家を出来ました。
とは言え、途中にも強い雨には閉口しました。

スクーターのレインジッケットも、少し浸水です。
そんな訳で、朝から下着まで濡らした次第です。
ここまで来れば、少し凹みます。

先日も、トイレに入ろうと、電気のスイッチをオンにしても、灯りが付きません。
あれ? 言わずと知れた電気の球切れです。
2年ぶりくらいだったように記憶しています。
これにも、凹みましたね。

近くのコンビニに換えの電球を探していみると、既に電球が蛍光ランプに変わっています。
値段も見ると、880円です。
こりゃいかんと、確かもう少し安いのがあったはずと、もう一軒近くのコンビニに行った次第です。

そこは、7&i(セブンイレブン)でしたから、プライベート商品の電球型蛍光ランプが売られていました。
売価は、398円でした。
これしかありません。
昔のような電球なら、2個で200円もしなかったと記憶しています。
イメージ 1

60ワット相当の光を、消費電力13ワットで、再現します。
それに、寿命は6000時間です。
トレイの電球ですから、1日一時間も使いません。
すると、仮に1日一時間なら、6000日持つ計算ですね。

でも、使って見て分かったのが、電気を付けた最初は少し暗いです。
少し時間が経ってから、通常の60ワットの明るさを実感します。
いいのか、悪いのか分かりませんが、常備付けているような廊下の電気なら、適しているはずです。
小時間しか点けないトレイの電球には、もともと不適当だのかもしれません。

買って来た電球の箱に、古くなった切れた電球を収めました。
禅の言葉・禅語の中に、「閑古錐(かんこすい)」と言うのがあります。
長年使い古して先が丸くなって、錐として使えなくなった古錐です。
錐としての機能はありません。

それを、禅の世界では、尊ばれる境地です。
侮蔑の意味でなく、賛辞の意味です。
例えるなら、使えなくなった電球でも同じばすです。
とは言え、使えなくなった「切電球」では、意味が通じません。

茶聖の千利休居士と言えば、誰しもが名を知る安土桃山時代の中心人物です。
その利休の名の意味も、この「閑古錐(かんこすい)」と同じよう意味のようです。

利休の「利」の字は、名利や利益の「利」でなく、鋭利、利発の「利」の意味であり、「利休」とは、「閑古錐(かんこすい)」のように鋭利な機用が影をひそめたと言う「鋭利休歇(えいりきゅうけつ)」と言う意味であるようです。(『禅語の茶掛 一行物』 芳賀幸四郎著 淡交社刊 参照)

なるほど、鋭利な状態を休めたと言う意味だと考えれば、いい訳ですね。
じゃ、鋭利が休んでいなけれど、どれほどの御仁だったというのでしょうね。
ただ、その境地に達したが為に、茶の湯と言う道を、精神世界まで高めたと言うことなのでしょうね。

凡夫では、見えない崇高な世界なんでしょう。
道とは、そうしたものかもしれません。
道を進むのは、困難が付き物です。

生きる上で仕事をすると言うのも、蛍光ランプ繋がりで言うなら「鶏口となるも牛後となるなかれ」も、それなりに信念に持って生きないと、いけない様にも感じます。
小さいのは、小さいなりに頑張らないといけないです。

日々の暮らしの中に、ささやかな幸せがあります。
ありがたい仏縁を得たと、感謝しております。

心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいです。
それを願うばかりです。
今日も一日、私も世の中も、平穏無事でありますようにと念じます。

最後まで、使えなくなった電球を携行した話に、お付き合い下さいまして、心よりお礼申し上げます。