''かんとうしょうえ''の痛風日記

一病息災と心得て、「よかった探し」をしながら、日々感謝して暮させてもらっています

「本能寺後 光秀何を思う」 毎日新聞9月12日記事 より。

私の所蔵する本と言うモノの中、歴史モノが80%ほどを占めます。
そう歴史好きな私です。
特に、江戸時代、戦国時代が特に好きです。
池波正太郎氏の影響が強いのかもしれません。

戦国時代順当に進めば、誰もが信長公が天下統一をするのは、明らかでしょう。
そこに現れたのが、明智光秀殿の謀反です。
私の中では、明智光秀と呼ばずに、惟任日向守光秀と呼んであげたいです。
惟任(これとう)は、朝廷より賜った名前の姓ですからね。

何ゆえ、毛利攻めの為に出陣した光秀殿が、「敵は本能寺にあり」と進路を戻って、信長を攻めたのか、疑問の残る所です。
少ない手勢で京に宿泊していた信長公を攻めるのは、軍事的に容易であったのは推測できます。

ただ、その後の事を考えると、光秀殿を中心として天下統一が行えるとは、到底考えにくいのも事実です。
その疑問を垣間見られるのが、「本能寺後 光秀何を思う」 毎日新聞9月12日記事です。
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記事によりますと、狙いは室町幕府再興にありと位置付けられています。
都を追放された義昭公と光秀殿の主従の関係を復活させて、足利幕府の再興させる政権構想があったと言うモノです。

手紙(密書)の相手は、紀伊雑賀衆のリーダー格の土橋重治だとさせています。
筆跡、花押から光秀殿の自筆の可能性が高いと記事に書かれています。
光秀公の自筆の書状は珍しいとも記されています。
俄かに、真偽の程は判りかねますね。

本能寺の変には、いろいろな諸説が多いです。
光秀殿程の御仁が、義昭公で足利幕府が再興できないモノと理解できるはずですけどね。
浅はかな智慧と、ほとんどないに等しい人望で、幕府が再興出来るとは思えません。
その裏には、自分が天下統一しようと意欲はあったのかもしれないと考えれば、使えるものは無能な将軍でもよかったなら、信長と同じだと思える節があります。

それが証拠に、光秀殿お味方されない方の中には、婚姻関係にあった細川殿も居ます。
それらを考えると、もっと短慮的な個人的恨みがあったと言う方が、理解しやすいモノがあります。

母の死、領地坂本の領地替え、料理接待の失敗、個人的な恨みが募った結果の結果となれば、それもありかもしれません。
それに朝廷の横やり的な思惑に惑わされた結果と言う方が、謀略論があって面白い所ですね。

歴史に、「もし」はないですからね。
天正10年(1582)5月下旬、光秀殿が愛宕山で奉納連歌百韻を興行、「愛宕百韻」として記された発句有名ですが、もともと「時は今 雨が下なる 五月哉」を「下しる」に改ざんされた跡があるとの資料もありますね。

本能寺の変は、翌月6月の2日ですから、少し時間があったにしては、もっと打つべき策があったはずでしょう。
事故報告での連絡とお味方依頼は、少し無理がありますね。
まずは同志を集める所から始めないと始まりません。

それ以上に、「主殺し」は、武士道としても筋が経ちませんよ。
大義名分がしっかりないと、本物の武士は味方しないと思いますけどね。
戦には大義名分が必要です。
いきなり、ミサイルや核実験で、大義名分はないのと同じだと思います。

戦のないのが何よりです。
平和な世の中が何よりありがたいです。

日々感謝して暮らさせてもらっています。
心の三毒を廃し、心静かに安穏に暮らしたいと念じています。
ありがとさんです。