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鬼平犯科帳の主人公・長谷川平蔵宣以の若き頃、「本所の銕」「入江町の銕」と呼ばれると設定されているが、本所入江町に一族が住した記録がなく、本所菊川町に住していたようだ。
平蔵の父・宣雄が京都西町奉行に転じた時も、屋敷は人手に渡ることなく、平蔵もここにあり、平蔵の子辰蔵も、この菊川町で没しているようだ。
この本所入江町に「長谷川」の名がある。その長谷川屋敷に隣接する広大な屋敷に「植村帯刀」屋敷の名がある。
これが、植村泰勝の子孫になると推測される。
詳しい記録が出て来ない。
植村泰忠は、天正18年徳川家康より3千石を賜り、勝浦城主に封じられた。
泰勝・泰朝・忠朝・正朝と継ぎ領地1万石を受領して160余年(天正18年から寛延4年)にわたり勝浦に善政を行った。
(勝浦市市指定文化財)の植村家宝篋印塔の中に、「浄入院殿見宝宗悦大居士、植村帯刀源朝臣康朝寛文三年八月十四日」文字が見られる。
植村 泰勝(うえむら やすかつ)
1578年生 1635年没
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。
植村氏は、清和源氏の一流である摂津源氏の流れを汲む美濃源氏の嫡流・土岐氏の末裔を称している。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦、岐阜城攻略に本多平八郎忠勝の指揮下に従軍、本戦でも武功を挙げる。本多忠朝に属し、大坂夏の陣にも従軍。父・植村泰忠と共に勝浦に住す。父・泰忠は、上総国夷隅郡勝浦5000石を領す。
泰勝は、大番頭にまで昇進し、寛永10年(1633年)4000石を加増、計9000石の大身旗本となる。
忠朝代には、さらに加増され、大名に列す。
植村 忠朝
寛永7年(1630年)、植村泰朝の次男として生まれる。兄泰治が病弱で家督を継ぐことを辞退したため、世子となった。万治元年(1658年)閏12月、従五位下土佐守に叙任する。寛文3年(1663年)、父の死去により遺跡を継いで9000石の大身旗本となる。
寛文8年(1668年)8月に書院番頭。
寛文9年(1669年)2月に大番頭。
天和2年(1682年)4月21日、2000石を加増されて1万1000石の大名、上総勝浦藩主となった。
元禄9年(1696年)11月16日に死去、享年67。跡を嫡男の正朝が継いだ。